氷見の夏と海

 

氷見を訪れた時、わたしはそろそろ疲れていました。何がなんだか分からないくらい色々な仕事をして、次々巡ってくる屈辱や充実感や高揚感を味わった、そんな夏の頃でした。

富山県氷見市には、Uターン・Iターン移住した知人が複数住んでいます。都会の酸いも甘いも知っているような20代-30代が都会を離れて奮闘する、その場所の魅力を知りたいと思いました。

熱をふくんだ湿気を振り払ってたどり着いた先、顔の皮膚に涼やかさを感じます。
日本海に自分の身を浸すのは、思えば人生初めてかもしれない。そんなことを思いながらシュノーケルをつけて、海に入ってみます。ひんやりとした感覚を予想していたのにもかかわらず、あたたかい。岩場の上を通り過ぎれば、岩ガキやウニがそこかしこにみえる豊かな海。対馬海流のもたらす恵み。

ビーチコーミング、という外来語をご存知でしょうか。”Beachcombing” 、つまり「ビーチ」+「くしけずる」という二語の組み合わせで出来ている単語です。つまりは、海岸で漂着した色々な素敵なものを拾って歩くこと。

わたしと友人が訪れた海岸は角の削れたガラス片や陶器片が流れ着く場所でした。丸みを帯びた乳白色のガラス片、しかし一つとして同じではありません。どこかの誰かが捨てたガラスゴミが、辿り着いた海岸でまた別の人間の愛でる対象になりうる、その事実にわたしは熱中しました。

海に身を浸し、海岸線を横に進む、そしてまた砂浜を歩く…。半分乾いた身体に吹き付けるひやりとした風を感じて我に帰ると、もう夕刻が近づいていました。

その日お世話になる宿にたどり着くと、すぐに夕食。その日の朝取れた魚、しかし「コッパ」として避けられた、市場に乗らない魚の美味い汁物をいただきます。夢中になっている間に知らずしらず体力を消耗していたみたい。暖かい料理が体内に染み渡り、その事実に気づきました。

都会暮らしも田舎暮らしも海外暮らしも、全部少しずつかじってみたことがあります。その結果、自分には日本の都会の片隅くらいがちょうどいい、と思い至りました。自然と共に生きる山郷は大好きだけれど、急流のような都会も好きだけど…。そのどちらでもない、ちょっとずつどちらでもあるような境界線上の暮らし。

でもそこに居続けるのもしんどい時はあって、自分の見る景色を変えて風通しを良くしてあげないといけない時があります。氷見を訪れたのもそんな理由でした。よそ者のわたしを「ああ、よくきたね」と寛容に受け入れてくれる人たちの中で、真に「夏休み」という言葉に当てはまる時間を過ごすことができ、滋養をいただけたのでした。

ありがとう氷見、もう帰らなければ。でも元気になったよ。