全く参考にならないわたしのキャリアの話 (2): 進学先失敗からの就活挫折からの実家逃走

 

わたしは、大学を卒業してから就職せず、紆余曲折を経て現在は主に日英翻訳をして生計を立てています。翻訳業は偶然たどり着いたキャリアですが、今考えるととってもしっくりきていて、この場所を見つけられてよかったと思っています。

この記事では、大学時代から仕事を始めるまでの経緯を書いています。そもそもなんでそんなヘタレな性格になったの、という話はこちらからどうぞ。

全く参考にならないわたしのキャリアの話 (1): 自分で頭を使わない子供

2020年11月21日

ちなみにタイトルに「挫折」と書いていますが、就活に関しては、始める前に心が折れていたので実は挫折するほどしていません…。

道に迷って旅に出て、そして就活メインストリームに参加しそびれる

大学受験で理系での進学に失敗し、もともと自分のかける労力に対して跳ね返ってくる効果が大きかった語学の方向に浪人せずに進んだ…ところまではよかったとして、それを受け入れられないわたしがいました。

認知言語学や音声論や英語史そして英文学…今とても役に立っているので結果として学習してよかったんですが、当時は全然面白みを感じられなくて辛かったです。そもそも学びたかった動物の生態という分野とのギャップが大きすぎました。

鬱屈したまま大学3年生になり、合わないゼミに所属した結果、日本語が聞こえていることは分かるんだけども何を言っているのか理解できない発話もできないところまでいきました。わたしが不調に陥るまでに同期も二人メンタルヘルスの問題で辞めていったゼミでした…。後から聞いたら毎年誰か同じような状況で辞めていっているらしい。

大学内のカウンセリング室で正式な診断はできなし、当時のわたしとしては「一回精神科の通院歴がついたらもう再起不能なのでは」と思ったので(そんなことはないけど、思い込みが激しくなっていた)、最後の力を振り絞って「ノイローゼ気味であるから休養させるべき」という一筆を医務室の医師に書いてもらい、それを学部とゼミに提出。休学し、タイまでの片道航空券だけを携えて無計画な旅に出ました

当時大学3年生の就活の公なスタート時期は冬ごろ。わたしはそれどころじゃないくらい参っていて、その後脇目も振らずに休学したので、まったく就活については触れずじまいでした。

帰国後参加したインターンがド級のブラック

1年弱海外をふらふらした結果それなりに元気を取り戻し、同級生の就職活動が終盤に差し掛かり、一つ下の学年の子たちもスーツで登校しているころ帰国しました。そして、「出遅れたけど、また日本社会になじむべく頑張ろう…」としたところ、参加したインターン先が超ブラックでした。

信頼する友人に紹介され、面白そうだなと思ったインターンだったし、そのまま採用も考えているというので参加したのですが、内実はインターン生を安い労力として使い倒しているという状態でした。全然やり方がわからないのに、まるっとタスクを投げられて朝9時から夜2時まで仕事してました。「インターン」ですよ…?今思うと絶対おかしいのですが当時は右も左もわからないので、周りの人が平然としてるとそういうものなんだと思ってしまったよね…。

会社自体はホワイトだし理念は素晴らしいものだったのですが、他のビルの1室に間借りして新しく立ち上げられた新規事業部で、本部役員の目が届かないところにあったのでそこの事業部長がやりたい放題だったのです。紹介してくれた友達もインターンをしていた会社だったのですが、本部の方で働いていたのでその状況を知らなかったようです。結局、知り合いの大人たちが口をそろって「いいから今すぐやめろ、今やめろ、はい電話かけて」と強制的に引きずり出してくれました。自分では抜け出せなかった。

振り返ってみても、その事業部のやり方はどう考えても悪どいから辞めよう、と思えないくらいに洗脳されていたんだな、と怖くなります。「成長の余地があるんだから今頑張っておかないどどうするの」「期待してるから色々お願いしてるんだけど」「ちょっとくらい調子悪くなったって、やり切るんだよ」…という言葉に完全に言いくるめられていました。

その会社しか知らないものだから、「日本企業こえぇよう…。」という思いを抱えたまま、少しだけ就職活動をしてみるものの、自己分析で言っていることがピンと来ず、いきなり四季報を読めと言われても「なんで?なんでみんなそれを当たり前だとおもえるの?」となり、力つきました。

大学2年生まで恋愛だバイトだ部活だって言ってたのに、大学4年生になったら、外資系が金融がコンサルが広告がメーカーが商社が物流が…って様変わりしていて、意味がわかりませんでした。(わたしが大学3年生で周りのことを見られなくなっていたという原因もありき、で。)

あの頃は、ほんとコレ状態でした…。こういうのをのりこなしてきた社会人のみなさん、すごすぎる。

必死に働いて学費を捻出し、娘をそれなりにいい大学に入れたのに、当人は就職もしなかった…そう知ったら親は悲しむだろう…。胸が痛みましたが、「新卒採用は3年有効らしいし、とりあえず一度頭を整理したり溜まっている本を読んだりしよう」と諦めたのでした。

大学を卒業し、シェアハウスに転がり込む

結局ろくに就職活動しないまま、卒業論文も集中できないままフラフラよれよれで文字数を埋め、お情けで卒業させてもらい、さあこれからどうしようとなりました。

大学が実家から30分の距離だったので、それまでは実家暮らしでした。でも就職もせずに大学を卒業したばかりの娘が日がな一日家にいるのを目にした親は、絶対心配から怒り出すだろうと思ったので、とりあえず実家を出なければと考えました。

そして、たまたま旅のつながりで知り合った人に「実家を出るためにどこかに移りたいんですよね、手頃なシェアハウスとか。」と適当なことを言ったら、「んじゃあ、うちのシェアハウス空いてるけど来る?」って言われたのです。(これがピカギラちゃんでした。)

(キーパーソンはこちらで紹介しています。)

登場人物について

2020年10月11日

その提案に、「あ、じゃあ入ります。」とその場で答えたんです、わたし。

どうしてそういう気分になったのかはわかりませんが、こういうのを直感と言うのかもしません。「なんかよく分からないけど、自分グッジョブ」と今でも思っています。

 

旅でいろんなところに行って、たまには地元の人に泊めてもらったりしていましたが、家族以外の人と一緒に住むなんて初めてでした。共用スペースをきれいにする事はルール定められているものの、私が何時に起きて何をしていようが誰も指図も何もしない環境…協調性は必要だけれども完全に同調なんてしなくてもいい。ビクビクしなくても良いというのはとても心に良いものだなぁ、という気づきをここで得たのでした。

それでしばらくは本を読んだり、人のいるリビングでゴロゴロして大変心安らかな日々を堪能していたのですが、また問題が起こりました。

お金が底をついたのです。

まあ、そうなるよね!

実家暮らしだったとはいえ、学生時代にバイトして溜められるお金なんてたかが知れています。さすがに大学まで出してもらっていたあげくに身勝手に就職もせず実家を出たわけですから、パラサイトはできません。

見かねたシェアハウスオーナーに拾われる

シェアハウスのオーナーだった「にゃん子大将」はシェアハウス住人でもありました。

家賃支払いが遅れてしまったわたしを見兼ねて、ある提案をしてくれました。

「英語できるんでしょ?もう家賃はいいから、その分私の仕事手伝わない?」

にゃん子大将もバックパッカー経験者で、大学卒業後すぐに旅に出てお金が尽きてしまい、その後しばらく極貧生活を送ったことがあったので気持ちがわかるから…とのことでした。

この言葉が決定打となって、今の私がいるようなものです。にゃん子大将には一生足を向けて寝られません。

それでまず、にゃん子大将が営む小さなインターネット関連の事業で、外国の取引先とメールや電話をする仕事をすることになったのでした。

それまで全く気づかなかったのですが、住処のことを全く心配しなくていいというのは大変安心感につながるものでした。それに自分の能力を生かして誰かの役に立つという経験もさせてもらえて、またここで一段落メンタルが回復します。

日々を誰かのために使い、感謝されるとうのは大変に気持ちいいものでした。特にこれといってやりたいこともなかったし、それに負い目すら感じている状態だったので、自分が役に立っている感覚というのが大きかったんだと思います。

 

全く参考にならないわたしのキャリアの話 (3): 「英語がわかって暇してるヤツ」ポジション

2020年11月27日