正直、やりたいことが何なのかわからなくてもいい

 

先日、就職したばかりの年若い友人と話していて、

「やりたいことが分からないいんですよね…」
「分からなくても、いいのではないかなぁ。ちなみに、わたしは分かんないですけど、あんまり悲しいともしんどいとも思ってないです。」
「不安にならないですか?多分今の仕事場でもやりたいと言えば色々やらせてもらえるんだと思うんですけど、私が出しゃばっていいのか…って日々悶々としてます。」

という会話があった。

そもそも「やりたいこと」って言葉足らずじゃないか

「やりたいこと」なんて漠然としている言葉は、人を惑わせてよくないな、と思う。
自分に幸福感を与える行為って考えると、わたしは基本的に好きな人達に囲まれた環境で本を読んでごろごろしてたら幸せなのだ。ただそれは消費行動にしかすぎなくて、仕事として成り立つ生産行動で何ができるかということを考えなきゃいけない。

わたしは小さい頃から漠然と獣医になりたいと思ってたものの大学受験にそもそも失敗したし、獣医免許持ちの知人がそれを活用しない「業界がブラックだから」という理由をみていても、獣医はあんまり自分に合ってる仕事じゃなかったんだろうと思う。

それからというもの、別にやりたい明確な職業なんて思いつかない。そして、多分そんなもの存在していない。自分のやりたいことがぴったりおさまる職業名なんてある方が珍しいんじゃないか、と思うのだけれど。世の中の人たちはどう捉えているんだろうか。

これは、目を開かれた思いがした、桜林直子さんの名noteだ。
この文章が言ってるように、明確な目標を描いてそれを保持しつつ最短距離で努力できる人って全員じゃないし、それでいいはず。多くの人は、自分の状況と、希望するライフスタイルから自分ができることを導き出しているのだ。そしてその声はなかなか聞こえるところに明快な状況でおいてあったりしない。そう言う意味で貴重なテキストだと思う。

好きなことを仕事にするべきか・しないべきか論争なんていうのは、これもまた「好きなこと」っていう漠然とした言葉でくくられるから分かりにくい。「ケーキが好き」だって、ケーキを食べるのか作るのか描くのか、食べたついでに美味しい店を見つけて人におすすめするのか、「好き」の表出にそういう動詞が入っていない。そうやって大まかに捉えることで、実際仕事になる作業をしてみたときに、違った…と思い知る現象に繋がるんじゃないだろうか。

そもそも自分が現在興味のある分野で(着眼点、自発的な興味の分野)で楽しい気持ちになる行動(アウトプットの行為や作業)が金銭価値を生む人って稀有だ。

ただ他人に自分の生活を制御されず、主体的にお金を稼いで生きていくためには、自分の知識・スキル・時間を労働市場に提供してその対価をもらわないといけないわけで。労働市場で金銭価値になる行為の中で、自分ができてかつ苦にならないものは何か…?って考えるのが、適職への解だと思っている。「科学的な適職」の著者も同じようなことを言っていた

できたら何もしたくないけれど、やってみたらなんとなく楽しくなる、ということもよくある。そこに自分の理想とする労働環境というものをフィルタリングした結果、適した企業とか労働形態が見つかる、というのが現実的に妥当なラインだと思っている。そう言う妥協をしていない人の言動ばっかり目立っているから、劣等感を感じてしまったりする人が多いんだろう。

というわけで、わたしはやりたいことが分からないという状態は当然だと思っているので、その状況自体が不安っていうことは全然ない。というか、不安を無くすことにこの年になってやっと到達することができた。

「自分の選択肢が正解だったのかは、分からない」を前提に

わたしも、延々と悩み続けてきたタイプの人間だけれど、最近「間違っていたか間違っていなかったのかは結局のところ不可知なのだから、悩む体力を浪費するなら愉快な方に認知傾向を切り替えた方がいい」というスタイルに移行した。この辺が、アドラー心理学的が「過去はない」という言葉で意味したいところなのかな。

また、自分の取った選択肢が間違ってたんじゃないかという不安は、体力がないのに悩むのめんどくさい、と思うようになってきたことが功を奏した。いわゆる「丸くなった」っていう現象だろうか。悩み続ける体力がなくなってきたし、感情の総量がすこし小さくなったような感覚がしている。

20代初めって何故か万能感があるけれど、その時点でできることが少ないのなんて、当たり前だ。新卒、第二新卒で会社勤めを始めてすぐ、自主的に動いてなにか大きなことをするための能力が足りてることなんて、ない。

自分が動かしたいようにものごとを動かす前提で考えてしまうから、大ゲサな杞憂をしてしまうんだろう。人の指示に従って労働力を提供する代わりに、お賃金と福利厚生、企業の蓄積した知識や経験をいただく。そういうシンプルな等価交換のはずだ。あのころ周りにいた大人は、どうして「自分への期待値が高すぎるとしんどいよ」と教えてくれなかったのか。

期待されていることをなるべく首尾良くこなすことに思考を割きながら、いかにバックアップ体制が整ってる環境でやりたいこと選び取っていくか、が会社員の醍醐味なのではないか、とフリーランスのわたしは思う。実は最近ホワイトな会社勤めがしてみたい気持ちも、じわじわと湧いてきている。

わたしの年若き友人は、国際NGOなんかに興味がある心優しく聡明な人のだけど、なかなか希望する待遇が見つけられなかったり、職種に求められるスキルが自分と一致せずに悩んでいた。起業するのも、生活のリスクがあるから違うとおもう、と考えた結果、企業の人事課で仕事をはじめた。そして、もやもやとした不安を感じている。

彼女はきっと、専門性上げる時期なのだ。分野はあとから、専門性があったら関われるようになる。だって、「社会をよくすることに関わりたいんですよね」といったって、一番に聞かれるのは「じゃあ、君はなにができるの?」だから。「なんでもやります!やる気あります!」だと結局うまくいかない場合が多い、と色々な人を見ていて思う。

人事のプロってどんな業界でも必要とされるし、幅広い社会科学や心理学とも親和性が高い。もしその専門性を今後のキャリアの武器として使うなら、すごく融通がきく気がする。

出しゃばっていいのか、という不安

最近言語化できるようになった心の持ちようで「良い意味での利己性」というのがあるのだけど、これは便利だなと思う。行動の動機を、他人に嬉しいと思ってもらったら自分も嬉しいからやりたい、と最終的に自分に寄せた理由にするのだ。

Twitterで有名な “プロ奢ラレヤー”さんが「〜してあげる、っていう考え方は傲慢」と言っていた。(このツイート内の動画)

自分軸-他人軸 でいう他人軸、つまり「相手を察して、相手が嬉しいように行動する」ことのネガティブな面がこれだろうな、と思う。こうしてやると相手が嬉しかろう、と期待してしまうのだ。本当に相手が求めていることとはずれているのに。

会社のように、色んな人が寄せ集まっている場所で他人軸は相性が悪い。言葉遣いや笑顔で親近感は高めつつ、なるべく自分軸を基準にして動いたほうが、うまくやっていけそうに見える。

もしわたしが出しゃばりすぎだと思われないか、と不安になったら、「他人がどう思おうと、自分の得たいものを得るためにやっている」と思いこむ試みをするだろう。本当に仕事仲間の邪魔をしていたら、上司が指摘してくれるだろうと期待して。

ただ、「相手に自分が期待されていること」と「相手に自分が期待されている、と自分が思っていること」が合っていなくて大失敗をしたこともある。だから、仕事内容の範疇をなるべく頻繁に言葉ですり合わせておくこと必要があるんだろうな。