FUNAN: かすかな希望を見せながら、やわらかく事実を伝える

 

このあいだ、重っくるしいアニメ映画を見てきた。

『FUNAN フナン』という、カンボジア紛争に翻弄された女性とその家族の物語だ。フランスで生まれ育ったカンボジア系監督が制作したこの映画は、世界最大最古のアニメーション映画祭・アヌシー国際アニメーション映画祭のグランプリを受賞している。

アンコールワットで有名なカンボジアでは40年前に、国民の1/3が死ぬという悲劇があった。「フナン」は、一人のふつうの女性の目線の、この時代に翻弄された経験を、とても抑えたトーンで語った映画だ。

わたしは、大学時代にすこし歴史を調べたことがあったクメール・ルージュの圧政と大虐殺を、アニメにしたらどういう表現が可能なのかに興味があったので、勇気を出して見に行った。最近また出不精がたたって自分のために予定を作って外出できないので、人を誘って。

一緒に映画を見に行ったのは、大学時代から繋がりが残っている3人のうちの1人。コンゴ内戦の勉強会に取り組んだり、学生会議のためにオランダに行ったりしていた同級生だ。そこだけ切り取ると活動的で意欲的な女性だけど、心の壁が弱々しいのはわたしに似ている。だから、『ホテル・ルワンダ』(ルワンダ虐殺)や『アクト・オブ・キリング』(インドネシア大虐殺)、『キリング・フィールド』(カンボジア内戦)といった映画を見られないらしい。全部、わたしも見ていない。絶対悲しくなるから。

そんな同級生と、「アニメだったらまだ見られるかも…? 」と、二人でこわごわ映画館を訪れることにしたのだった。耐えられなかったら手を握り合って目をつぶってましょう、映画の前後に美味しいものを摂取しましょう、という約束を安心材料にして、大阪のテアトル梅田に行った。こじんまりとしていて良い映画館だ。

あらすじ

以下も、この映画を見ようと楽しみに思っていて予想外にこのブログに行き当たってしまったという方はいないかと思うので、ネタバレだらけで書き綴っていく。

映画は、武装組織に支配された1975年のカンボジアから始まる。独裁者ポルポト下、「オンカー」と呼ばれる革命革命組織に住みなれた場所を奪われ、農村地帯へ退去させられてしまう主人公の女性チョウとその家族。チョウには3歳の息子ソヴァンがいるものの、道中の混乱で離れ離れになってしまう。夫クンと親戚、労働者キャンプで出会った人々と励まし合いながら、ソヴァンとの再会を望む日々を過ごす。夫クンはソヴァンを探しにキャンプを抜け出すが、監視に見つかり、殺されかける。親戚の男性ソクがクメール・ルージュ側にいたため、融通を図ってもらうことができて、なんとか免れる。体制側について人々を使役する側に回っている人も、自分の身内には情をかける。

労働環境は劣悪で、荒地や森を開梱するような重労働なのに、食事はほんの少しのおかゆが配られるだけ。体制の監視者たちが食べているような肉や果物は口に入らない。強制労働での食糧生産は、ポル・ポトが「原始共産主義」という思想を掲げて始まった。少しでも反体制に傾きそうなインテリが片っ端から殺されていった一方で、大勢のふつうの人々も、こういう強制労働と栄養失調で亡くなっていた。

これまでの大規模な共産主義の画策で、理想としては「みんなで共有しよう、かたよった階級社会や資本主義を抜け出そう」などと言うけれど、結局のところ統制と強制に至るのはどうしてだろう。やっぱり人間は根っから欲張りで、自己中心的で、興味のない他人にかける親切心なんて持ち合わせていない人がほとんどだから、理想を叶えるためだとしても言うことを聞せられないんだろうか。わたしも、怠惰だから乗り気にはなれないな…ポルポト時代だったら、それ以前にメガネをかけている時点で殺されてるな…。そんなことを考えていた。

作中には、超人的力をもって敵を倒すヒーローも、頭を使ってなんとか切り抜けようとする策略化も出てこない。主人公チョウは息子とはぐれ、会いにいく許可も出してもらえずに、ただただ翻弄される。ひとつ、チョウに光る主人公らしさがあるとすれば、息子と再会することばかりを考え続けて、生き延びる意志の強さだろうか。ただ、井戸に落ちたところを助けた体制側の女性がこっそり食糧を置いていくのを、チョウが「情けを受けない自由はある」と突き返すシーンがある。そんなの生き残るために利用したらいいじゃん…と不器用さに焦ったくなった。

主人公のモデルは監督の母で、実体験を聞き取って作られたこの作品では、チョウが出会う女性たちそれぞれの心境が少しずつ、丁寧に描かれている。生き残るために、監視者の男性にたいして女性性を魅せつけ、食糧を融通してもらう女性もでてきた。子供を守るために、自分が生き残るためにそうしているだろう女性を、他の労働女性たちが田んぼに突き落とし、高笑いをする。理不尽な環境での生存戦略が、同じ境遇に置かれている人たちを引き裂く。

したたかに自発的に女を使える人ばかりではない。チョウの妹リリーは、ある日食料庫の監視役にレイプされてしまう。それを知ったチョウの母は、「食料庫番なんだろう、取り入って生き残るんだよ」と言う言葉をかける。その結果、リリーは首をつって死んでしまった。ひたすらに悔いたチョウの母も、栄養失調で命を落とす。

数年後、ベトナム軍がカンボジアに進行してきて政局は変わった。動乱の中逃げ出したチョウとクンは、煙のあがる方を呆然と見つめる子供達のグループの中に、ひとまわり大きくなったソヴァンを見つける。(はっきり語られていないけれど、このシーンはおそらく制圧されたキリング・フィールドを示しているはず。)難民キャンプのあるカンボジア・タイ国境を目指して森の中を進んでいく。ところが、もう国境にたどり着く、というところで体制側に見つかってしまい、追われる家族。夫クンが、チョウとソヴァンを逃すためにおとりになる。チョウとソヴァンは、銃声を背後に聞きながら、静かに国境を越えるのだった。

観賞後にもやもやと考えたこと

そのような終わりだったので、「チョウ、生きててよかったね…生き延びて、命を繋いだ息子が作った映画をみられてよかったよ、ありがとう」という気持ちになった。

ただ、映画のあとはスターバックスに駆け込み、普段は頼まないチョコソースがけのマキアートを飲んだ。甘いものは心に効く。

物事を割り切ってバリバリと世渡りできる二人ではなく、当然映画の余韻は引きずったままのマキアートだ。様々な感情と問いが頭の中をぐるぐると出ていかず、映画のことを考えていた。

淡々とした物語進行が気になる

「自分はどこから来た? なぜフランスに住んでいるのに白人じゃない?というのは、繰り返し母親に投げかけていた問いだった。クメール・ルージュのことも繰り返し聞いていたが、まだ当時についての奇妙な幻想が自分の中にあったと思う」とコメント。続けて「カンボジア現地でのリサーチや、母と叔母の再会などを実際に目にして、クメール・ルージュ政権時に何が起こったかを真に描く必要があると感じた。私の母をモデルとした1人の女性の話だが、あの苛酷な時代を生き抜いた皆の物語でもある」

ー映画ナタリー『クメール・ルージュ政権下カンボジアを描く「FUNAN」本編の一部公開』

映画がつくられた意図を、監督のドゥニ・ドーはこう語っている。

スタイルとしてひとまずそのまま飲み込んだものの、語られ方がとても静かで婉曲的なのが気になっていた。フナンは、たしかにエンタメ映画ではないけれど、アニメという手法をとっている。アニメだったのは、凄惨な出来事を中の人の目線で追体験するには、とてもありがたかった。でも、なるべく多くの人にやわらかく伝えるために作られたものだとしたら、もう少し背景理解をわかりやすく描くんじゃないだろうか。解説記事には、安易な物語化を避けるためという分析がされていたけど、どうなんだろう。

まず、第一は自分の母の体験の記録が目的なんだろうと思う。幸運にも生き残ることができた普通の女性の記録だから、むやみにストーリーを盛り立てたりしない。

そもそも、わたしは小学生のころから『はだしのゲン』のアニメを学校で見せられていたような世代で、原爆の光で画面が満ち、女性が「溶けていく」様子は今でもトラウマ級に目に焼き付いている。そういう前提で、悲惨な出来事を悲惨に伝えないことに違和感を持ってしまったのかもしれない。

なお、一緒に行った同級生は「ポルポト政権を描くにしてはmax明るかった気はする。とんとん拍子に状況が悪化して、緊張感あったし」という感想を話してくれた。明るかった、と見えていたのは自分の印象と違っていて面白い。

アニメという手法も気になる

カンボジア虐殺では、支配者層が意図的に映像や写真資料をたくさん廃棄したせいで、あまりビジュアルデータが残っていないという。

だからドキュメンタリーにアニメをはさんだり、粘土でフィギュアを作って映像化した監督なんかもいて、語り方をみんな試行錯誤している印象があった。「10年ほど前から、アニメーションによるドキュメンタリーが注目を集めている」らしいので、その影響もあるのかもしれない。

土でフィギュアを100体以上つくって、当時のようすを再現した『消えた画 クメール・ルージュの真実』

 

難民キャンプで生まれアメリカで育った監督が、20年を経て沈黙を破った両親とカンボジアを訪れ、自分のルーツをたどるドキュメンタリー『New Year Baby』

ちなみに、ドゥニ・ドー監督は日本のアニメに影響を受けてアニメーション監督を志したらしい。

まさかの全編フランス語

あとは、誰に向けて作ったのか、ということだ。

音声が全編フランス語だったので、予備知識を入れていかなかったわたしは少しびっくりした。まさかの元宗主国の言語。てっきりクメール語や、英語なのかと思っていた。

そもそもフランス人・フランス語話者に見せるための映画として作ったんだろうか。監督の育った土地であり、助成金を出しているのもフランスだからか。監督が、初めて作ったアニメ映画だから、プロダクション的にフランス語収録が妥当だったんだろうか、それともカンボジアの声優が確保できなかったんだろうか。いろんな推測をしてしまう。

結局、よくわからない。単純に、フランスで作ったから、というだけかもしれない。

ストーリー展開的には興味を引くところは少ないので、フランス語圏でもポルポト圧政について知りたいと思っている人でないとなかなか見ないんじゃないかと推測してしまうけれど、アヌシー映画祭他で多数受賞をしていて、ヨーロッパを中心に、高い評価を受けている。

新しく題材に触れる西洋の観客に、特別にこの映画から伝わるのは何だろうか。遠いアジアの国の過去の虐殺が、歴史的事実以上にストーリーとして具体的になることで、身近に感じられるようになる人は間違いなく多いだろう。

そもそも欧州人からしたら、静かに流れていくアジアの田園風景を見るだけでも、新しい視点を与えるきっかけになるのかもしれない。今度、元気があるときに海外のレビューを読んでみよう。

ちなみに、エンディングソングはイギリスのシンガーソングライターが英語で歌唱する曲だった。

 

タイトルの意味

マキアートの糖分が少し頭に回ってきたから、タイトルの意味や、あまり時代背景をことばで説明しなかった監督の意図を調べた。

タイトルは、1〜7世紀、現在のカンボジアやベトナム南部あたりに存在した、扶南国という国家の名前。監督の英語インタビューによると、FUNANはクメールの文明の生まれた土地のことであり、そしてその文明がポルポト政権下で消滅しかけたことを想起させる。それに、西洋のオーディエンスがアジアの内容だとイメージしやすい語という理由で選んだという。

それ以上の意味はないみたいだ。わたしは、あえて政治的にニュートラルな語を選んだのかなと想像した。

日本人でわざわざこれを見る人はどう思ったのかな、とレビューを漁っているときに、FUNANはクメール語「プノーム(山の意味)」を語源とする説があり、物語の後半で山を越えるシーンには重要な意味がある、だとか、広東語だと「苦」の字「フー」って読むから漢字で書くと「苦難」のことという分析を発見した時は、なるほどと思った。Yahooの匿名映画レビューアカウント、すごいな。

背景説明は少ないのは、感情に語りかけ、自分で調べてほしいから

背景説明が省かれていたのは、観客が興味をひかれた物事については自分で調べるだろうから、という信頼が根底にあるみたいだ。

ドゥニ・ドー監督のインタビューでは、タイトルについて話している文脈で、

「監督として、自分は観客が自分で調べてくれるだろうと信じています。人は、見ているコンテンツに興味を引かれたら、調べ出すものですから。私もそうしますし、私の友人たちも習慣的にやっていることです」

(…as a film director, I really believe that audiences can make research by themself … because if people are interested by the contents they are watching, they start to make research. This is what I do, this is what my friends are so used to do.)  *訳:ごろびよ

と言っているし、その後にも同じようなことが書かれている。

「ストーリーを語る時に、感情と共感を使いたかったんです。主人公たちに共感したり同情したりすると、主人公たちの身に起こったことを自分ごととして追体験しますよね。それが、クメール・ルージュに関する内容を理解するのに最適な入り口なんです。また、主人公たちが通った道のりに興味を持ったら、クメール・ルージュについて自分で調べ始めることに繋がると思います。」

(I wanted to use emotion and empathy to tell the story. If you feel emotion and empathy for the main characters, you follow them and you experience what they are experiencing for themselves. This is the best way to start understanding the Khmer Rouge context. And since you are interested about the characters’ path, maybe you start also to make research about the Khmer Rouge.)  *訳:ごろびよ

 

ここまで調べてやっと、「ヨーロッパ人がクメール・ルージュ体制とその結末について知る導入として、デザインされた映画なんだろうな」という結論に落ち着き、一応の納得をした。

その頃にはマキアートはとっくに消えていて、再びお腹が食べ物を要求しだしていた。映画を見るのって、エネルギー使う。

疲れるし凹むけど、でも知っておきたくて見てしまう

案の定、映画をみた次の日もわりと気分が落ちていた。夕方一緒にオンライン筋トレをしたボス猫・にゃん子大将にそう話をしたら、「なんでわざわざそんな映画見に行くん…?」と呆れていた。

なんでだろう、自分でもあまりよくわからないけど、知っておいたほうが良い気がした。自分で何か行動を起こそう、という気概は今のところ強く持てないけれど、世界で起こった事象をなるべく知っておくべき、とは思う。