飽和した日常と、その尊さについて

 

相場よりもすこし値段は高めだが落ち着いた雰囲気のあるカフェで、お茶を飲みワッフルを分け合って食べたあと、祖母とデパートをぶらぶら歩いていた時のことだ。

「何か欲しいものある?」と聞かれ、 あまりよく考えずにわたしは「ん、ない」と答えた。

そこで、自分の口からでてきた「ない」という言葉に違和感を覚え、それから最寄駅に着くまで考えていたことがある。わたしには特に欲しいものが、ないのか。自分がもう30半ばであるからとか、祖母が少量の資産と年金で暮らしているからといって、遠慮したわけではない。

この建物の中を見渡せば、たくさん目に入る焼き菓子、流行の洋服ブランドの新作、流線型のハイヒール、機能性と見た目の華やかさが売りの下着セット、ライフスタイルを五感から彩るアロマオイル。きれいだな、と思う。でも、それらを目にしても特に欲しくないのだ。あってもいいけど、要らない。所有したいという渇望からは程遠い、怠惰な余裕のようなものを自らの内に感じる。

わたしのそっけない返答をうけた祖母は、「そうかい」とすこし寂しげだった。モノを受け取ることでおばあちゃんは嬉しくなるかな、そう考え直して、「ここにはないの。おばあちゃん、B1行きたいな。それで、羊羹とローストビーフを買ってよ。久しぶりにあのキラキラの羊羹が食べたい。お父さんもローストビーフ、そろそろ食べたがってるよ」と、かわいくお願いした。

この祖母や父、はなれて暮らす母も、初めての子供・初めての孫がよっぽど可愛かったらしく、わたしは様々なモノを買い与えられた。そもそも裕福な家系であったわけではないので、周りの大人たちが質の良いモノを知り尽くしていたわけではない。持っていたノーブランドらしき人形「ベリーちゃん」は、友達のもっている繊細なブランド人形と比べたら野暮ったくて、恥ずかしくなったこともあった。ただ、豊かな経済状況にある国において、多量のモノを買い所有することは欠乏からの脱却の喜びにあふれ、徐々に当然のこととして時代を息づく人たちの身体にしみ込んでいった。

わたしはといえば、モノの量をむしろ疎んでいる。選択肢の多さにはすぐに疲れてしまう。高い旅館やホテル、趣向を凝らした高級レストラン、高級車、飛行機のビジネスクラス、オペラやミュージカル、高等教育。自分自身はとても裕福なわけじゃないけど、交友関係の中で、そして仕事で、それらを味わい尽くしてきた。20代半ばになった頃にはすでに、良いモノを手に取り体験して培われる審美眼が身についてしまっていた。目新しさは、もはや喜びではなかった。ジュリアナ東京で遊び尽くした人が山里に移住し、ヨガやオーガニック料理をしがちなのは、こういう気持ちだからなんだろうか。

人生の早いうちから良いモノ安っぽいモノのどちらも手に取ることができたのは幸運だったと思う。経験してこそ、自分の嗜好に自覚的になれるし、高級な世界にいる人々を見つめることで自分のふるまいを慎み深く、質を上げてゆくことができる。

選択肢が多数あることも、きちんと認識し、それに対して感謝をするよう心がけている。環境が人をつくる、とはよく言ったもので、選択肢があると気づかなければ、目の前にあるものを全てだと思いこむ。だからこそ愚痴や不満のある世界に止まり続けることになってしまうのだ。わたしは世界に対して盲目になりたくない、変わってゆく世界に愚痴ばかり言う老後は送りたくない。

祖母は、モノが望むようには手に入らない時代に、没落した家で育った。そこから三四半世紀を生きて、ようやく手に入れた安定と豊穣を、いつも喜びに感じている。わたしは、隣でそわそわと羊羹の包み紙を受け取る祖母の、身体がしわしわと縮んでしまうまでの道のりに思いをはせた。昔の話を聞くといつも表情が陰り、厳しかった両親への恨み言や学びたかったのに断念した学校への憧憬が口をついて出る。そんな姿を目にするのならむしろ、祖母と一緒にモノに囲まれて、嬉しそうに安心する彼女を眺めよう。その方が、人間味のあるあたたかな液体で心が満たされる。

わたしは年に数回、関わりのある慈善団体にお金を送る。それを立派だ、なんていう人がいるけれど、自分の日常で、自分が欠乏や強奪におびえ苦しむことはないのに、わざわざ自分の日常に影響してこない他人を視界に入れ、手を差し伸べるのには理由がある。実際わたしはそれで「安堵」を買っている。あるいは、うしろめたさを帳消しにしている。自分は他者にやさしい善い人だと思いたい。もはや、趣味といっていい態度なのかもしれない。そうする必要があるほどに、わたしは恵まれている。

モノも、情報も、人間関係も、エネルギーも、うまく立ち回ればアクセスが安価で容易な時代だ。環境でなくて自分の解像度次第。どんどんと自己責任に依存する部分が大きくなってゆく世界で、祖母のような人は、どうなってしまうんだろう。同じように繰り返される充足した日常、生産され消費されるモノ、飽和しているように見える世界の中で、わたしたちはどこへ向かうんだろう。明日も同じように続くんだろうと信じているのは、傲慢なんだろうか。それを当たり前だと思わず、同じように続いてほしいと願うことは、特定の信仰を持たないわたしには、少し難しい。