マスク、それは非・非国民装置

 

友達の家から歩いて、買い出しにゆく。

「あ、ひ・ひこくみんそーち装着タイムだね!」

感染予防のためのマスクのことを非・非国民装置って呼んでいたら、2ヶ月ぶりに会った友達に嫌な顔をされた。どうしてだろう、本当じゃない?大勢の人の目がある場ではとにかく、「わたしは社会全体の問題意識を共有しています!」っていうシグナルを発していたら、受け入れられるんでしょう?

社会はユキハの言うことみたいに割り切った言葉でできてないしさ、そういう言い方しない方がいいよ、と友達はいまだに眉をひそめたまま、わたしの隣にたって自動ドアをくぐる。割り切った?まっさらの、素のままじゃない?わたしたちは、手に備え付けのアルコールをちょいっとつけて、取りかごを持つ。

医療関係の人たちが、いくら「マウスシールドには感染対策効果がない」とか、「ウレタンマスクよりも不織布マスクの方が効果が高い」とか発信していても、それをじっくり読んですぐに実践に移せる人ばかりが息づいている世界ではないし、口元にそれっぽいものをつけていたら、とりあえずは咎められない。

ここのスーパーだってそう。「マスク着用」は義務付けられているけど、鼻を出してマスクしてる人がいても、チラ見されるくらいで怒られはしない。マスクの付け方も含めてルール厳守の場所では、捕まった人もいるみたいだけど。

マスクをつけなければいけない場面では、わたしたちも迷わずウレタンマスクを選ぶ。布のマスクはダサいか余計な個性が邪魔で、つけるならそれ相応の気合いが要る。例えば、ファッションに合うからあえてコレを選んだの、っていう説明責任を感じるというか。不織布のマスクはすぐ鼻の頭がムズムズする。不織布の感触はまぁ、使いまわさなければなんとか耐えられるとして、問題は見た目。正直わたしたちにとって、ダサいってことは一大事だ。ダサいと自分の気持ちもあがらないし、友達の反応も微妙にバカにしているように感じる。好きな人の前には、ちょっと不織布マスクでは出られない。飛沫予防率が下がるっていう情報は知っていても、気持ちよく着用できるマスクは、ヌーディな色と鼻先がツンとしてみえるフォルムがかわいいウレタンマスクなんだ。わたしも友達もとっても若いし、たぶん感染しても死なない。死亡率が高い世代の人たちがウレタンマスクをつけ続けている限り、わたしもウレタンマスクで右にならう。大丈夫、ちゃんと周りをみて、みんなが不織布に変えたらわたしも変えるよ。若者のせいにされたらたまったものじゃないし。

そういえばレジ係の人たちは、いつしかみーんなゴム手袋をするようになった。お客さんからお客さんへの感染は防げないだろうけど、手袋をしているだけで安心して買い物ができる人たちがいるらしい。感染予防にはならないけれど、レジ係の人の手がアルコールで荒れなくていいなあ、と思いながら、わたしと友達はメルペイ払いでお鍋の具材を買い込む。あ、レジ袋、5円の方ください。

世の中には、大勢の人を不安にさせるシグナルとそうでないものがあって、そこには実際の効用ってそんなに重要じゃない。イメージ、そうその物体にまとわりつく、ぼんやりとしたイメージだ。自分に見えていて他の大勢に見えていないイメージも、その逆もたくさんある。自分が社会でのけものにならないよう、注意深くメディアやSNSから読み取ったそのイメージを、わたしたちはパブリックな場で実装する。

きっと非・非国民装置っていう言葉は、機能としては間違ってなくても、はらむイメージがよくない。面倒だな。一人一人が世界にむかって放つ言葉やふるまいは、どうあがいても政治的・思想的なメッセージを含むのに、やんわりふんわり包むだけで安心して見て見ぬ振りをできるのはどうしてだろう。とにかく、友達は無鉄砲なわたしが他のところでそんな言葉を使って嫌な目にあわないように、注意してくれたんだろう。優しいな。

ユキハ、鍵。友達の声ではっと我に帰ったら、友達んちのドアの前だった。友達はもうマスクを片耳からぶら下げて、リップを塗り直している。赤い唇を久しぶりに見た気がして、新鮮な感動が目の奥に流れ込んでくる。そっか、ユウヤくん来るもんね、今日。

おうちに入ってマスクをはずして玄関の棚におき、上着にファブリーズしたら、お鍋の準備をする。友達は、手洗いうがいしてきて、と言った。ちゃんとしている、この人は。ちゃんと自分の居場所と楽しみを守りつつ、社会的に信頼のおける共同体員をやっている。

ユミカちゃん見てると嬉しいな、もうユミカちゃんが存在してるってだけで嬉しいな。大学のクラスメイト誰にも会ったことないけど、バイト先もなくなったけど、デートしてた社会人とディナーいけなくなったけど。そう友達に言うと、したたかでしなやかに育ちなね、と無表情な横顔で応えてくれて、わたしは嬉しくてその場で小さくスキップした。