コンプレックスについて書くということがわたしを癒した

 

このブログ記事は、かがみよかがみに寄稿した『感情をことばにして蓄積することは、未来の自分に視点を保存しておくこと』のロングバージョンです。

書き残さなかった昔の記憶がうすい。

大学時代までの思い出が、ぼんやりとしている。もちろん完全に記憶が失われているわけではないので、スライドショーのようにてんてんと、情景の断片を思い出すことはできる。写真を見ると思い出すことも多い。でも、何が楽しくて何がつらかったのか、夢中になったことは何か、そのようなエピソードが全ておぼろげなのだ。「失敗黒歴史」のフラッシュバックに苦しんでいたところからは脱出したけれど、だからといって良かった思い出を今さら引っ張り出すのも難しい。

一番の理由は、日記を書いていなかったからだと思う。実は、最近まで恥ずかしくて書けなかった。日記だけでなく、本当の自分についての全ての事象を。

何に対して恥ずかしく感じるんだろう

書けないトピックたちについて、なぜ書けないかを考える。日々の悩みや挫折について、ほのかな恋情について、書き記して楽になりたいとは思っていた。考えを整理するために文章を書く必要も感じていた。書きつづるためのことばも持っていたと思う。でも、学校で提出すべき小論文では器用に点数を稼ぐことができるのに、自分を表現するためにいざ書こうと机に向かうと、頭が動かない。心が、押し留めようとする。いや、これは心じゃない。なんだろう…そうだ、恐れだ。

一体何に対して恥ずかしかったのか、というと、一番は自分自身に対して恥じていたように思う。思春期の現実では、漫画や小説の美しい物語にならったような奇跡は起きないし、何も脳内で想像するようには動かなかった。あまりにも格好悪い自分への恥ずかしさが暴発し、自己受容の能力を粉々にしていた。感情を真正面から知覚すると、なんとか自分をこの世に押しとどめている自尊心すらバラバラになってしまいそうだった。わたしは、身を縮こめて生きていた。

「もし自分が今死んで、無防備な日記を周りの人に見られたらどうしよう」という、杞憂はもちろんあった。文豪でもないのに。それにも増して、未来の自分に読まれることがどうしても許せなかった。将来の自分にバカにされる気がしていたのだ。成長した将来の自分自身を信じられないのは、とても苦しい。

特に性愛や恋について書いたものが残ると考えるだけで、怖かった。さんざん小説や映画で幻想的な恋愛模様を読んできていても、その感情が自分の中にあることを認識するだけでまるでやけどしそうで、直視することがとても難しかった。当たり前に興味が湧くことだけれど、それについて考え、体験する「資格」がないと、わたしは自分に言い聞かせていた。過去の記憶の中から聞こえる他人の笑い声が、喜びを感じたい欲求を押しとどめていた。

突発的に長文を書いては読み返したときに耐えられず、ページなら破り捨て、データなら全消去したことが何度も何度もある。そして習い事や自主的な勉強で自分を忙殺して、心のざわめきをやり過ごした。ゆらぐ10代の感性をぶつけた痕跡が残っていないのはとても惜しいな、と今になって思う。

自分を変えたいと思った時に浮かんできた、「書く」ということ

コロナ禍は、今までの人生を反芻し、未来をどう生きるか考える時間がたくさんあった。たくさんのものを見聞きして世界を観察する方法は手に入れた20代、じゃあこれから世界に対してどうやって自分を開いていこうか。そのことについて考えたときにまず心に浮かんだのが、文章を書くことだった。言いたいことはあるけど、身体を使って人前で雄弁に語ることはずっと苦手。自分の絞り出した制作物だけで、他人と対峙したかった。

一週間くらい逡巡したあとで、筆名をこしらえてブログに文章を書き始めた。わたしが自我を人々の通行路にそっと置いたとして、誰も見向きもしないかもしれない。けれど、わざわざ嘲笑する人もいないし、いても法律が味方だ。これから安心して足を踏み出すには、身をもってそれを理解する必要があった。

ペンネームは、文を書く「自分の一部」だけを一つの外郭をもつ存在として切り分けてくれるので、とても安心感がある。わたしの実名は少しユニークだから、インターネット検索をすると一発で自分の来歴がわかってしまう。そっちではよそ行きのわたしが、自分の有能性と信頼性をアピールしている。ドロドロした心情の吐露とか、恋愛に対して臆病になって意味のわからない拒絶をした体験をひっくるめて自分です、と胸を張るにはインターネットはあまりにも社会的であまりにも開かれた場所に見えた。自分の名前と顔と考えと表現を全部晒して、会員制でない世界で生き抜いている人の感性の手ざわり、心を守る盾の材質、あるいは賭けている覚悟と生命の総量は、きっと自分のものとは違う。

ひとりでこっそり日記帳をつけるのではなくてブログにしたのは、他者の目が届く緊張感を感じたほうが、普段目を逸らせているものを真剣に吟味するきっかけになるだろうと思ったからだ。これまでも好奇心は強くて、いつもなんでも知ることは好きだったけれど、学びを誰かに伝える意義がわからないままでいた。でも今は、わたしのことばを解るひとを解りたいし、解ってもらいたいと思う。小器用に他人のことばに合わせることができるけど、結局いつまでたっても常にどこか満たされない。そんな気持ちはもう十分味わったから、自分がまっすぐに出したことばのシグナルに反応するひとたちと一緒にいたい。

書き手に回って初めて身に付く意識

今、ブログを初めて6ヶ月目になる。書いていくうちに、今までまとまらなかった感情を常に多角的にことばで表現しようとする癖がついた。それは日常で自分をより明確に知覚することにも役立ち、結果的に気持ちが穏やかな時間が多くなった。白黒つけられない時も、なにが自分の判断を押しとどめているのか、その姿がはっきりと見えるようになった。

人に伝わる表現についても考えるようになった。適当に耳障りのよい流行りことばで自分を覆い隠すわけではなく、でも自分の気持ちを的確に伝えるには、幅広い語彙や情景を連想させるメタファーをここぞという時に繰り出すことが必要で、それはまさに術(すべ)と呼ぶべきものだと知った。これまで娯楽として没入するばかりだったフィクションや詩集に触れる時に、伝える側の視点を学びたいという意識を持つようにもなった。

文章を書いた当時の視点が残る、というのは期待の外にあったメリットだった。過去の自分を反芻して通ってきた道のりを慈しむタイミングだとか、あるいは過去を振り返って今の自分の方向性を修正する必要が、人生には時折ある。でも記憶というのはとても曖昧で身勝手なもので、その一瞬の感情によって簡単に書き換えられたりもする。だから、確固とした記述が残っているというのは、とても役に立つ。事実の記録、だけでなくて当時の感情も残っているのが大きい。このブログにしたって、始めたのはたった半年前のことだけれど、生々しい感情がことばに収納されてそこに存在している。

そうすると、たった半年でどんなに遠くまで自分が来たかに驚く。実感として、地続きの自分でしかないけれど、書いてある葛藤や苦しさに、共感を覚えなくなってきている。認知行動療法を自習したときにも、紙に書き出してみて、もう一度それを見つめて考えるというプロセスが重要視されていた。そこでは、時間がたったあとに見返すことはしていなかったけれど、総じて自分を癒すことに繋がっていることはわかる。

いまでも文章を書き、読み返すたびに稚拙さを感じる。でも、きっとまた半年後には今書いているこれも稚拙だと感じるんだろう。今までなら、すぐ耐えきれなくて消していたと思うけれど、今回は蓄積することを大事にしたい。未来の自分のために視点を保存してあげたい。

もし学校や仕事場で「あなたについて書いてください」なんていう課題があったら、わたしは今でも、注意深く自分の格好悪いところを取り除き、嘘ではないけれど本当というには味気ない文章を、そうとわからないように飾り立てながら書いて提出してしまうかもしれない。とっさに感じる羞恥心なんかはやっぱりどんなに心理学の知識を吸収しても、セルフケアの方法論を学んでみても消えない。でもそこにぐっと理性で力をかけて少し勇気を出してみる。自分の見ている景色の片鱗を共有しようとしてみる。その行為は、この世界に存在する自分自身を受容する態度につながると思うのだ。

それを、もっと若い時に知っていたら

「20歳までに知っておきたかったこと」という滋養に満ちた本があって、わたしはそれが好きなのだけれど、そこに書き加えるとしたら、「今頭から暗闇に突っ込んでいる15歳でも20歳でも、過去を愛おしいと思えるときが来る」と言いたい。そしてそれは、死ぬ間際というにはずっと早い段階であるかもしれない、ということを。

昔から、なんて自分は表現が下手なんだと思っていた。世界を表現するのに、ことばは圧倒的に足りなくて、なんでこんなにも圧倒的な感情につける語彙がないんだろうと悶々としていた。でも分かり合えなさに絶望したくなかったから、なんだかんだ自分なりに折り合いをつけてここまで生きてきたんだと思う

もう十分に大人になったから、「完全に伝えることは無理だ」と快活に割り切ることができるけど、でも真摯に自分を伝える術をもっと昔から培ってきていたら、もう少し遠くまで跳べたんだろうか、とも思う。

将来の自分を何の根拠もなく一旦信じてみて、その成長した人物を喜ばせるために率直な今の自分を書きつらねてみることはできないだろうか。未来の自分に一旦全ての責任を投げて、今の自分は、好きに表現してみる。そこから、気づくこともあるだろうし、他人への伝え方を学べるかもしれないし、とにかく自分を癒すことができる気がする。そうやって、希望を見出すことはできる、とわたしは信じたい。

 

Ashe “Save Myself” を聴きながら。