世界の解像度:勘が鈍いのではなくむしろ見えすぎていたのかもしれない

 

これまで長い間、「ふつうになりたいのに自分は人にできることができない」と頭を抱えてきた。だから自分は勘が鈍いんだと思い込んできたのだけど、どうやら逆だったかもしれない。状況把握的な意味での  “物わかり” が平均より上で、必要なコミュニケーションの要素をすっ飛ばすから人を置き去りにしてきたかもしれないのだ。「自分に見えている景色=人にも見えている、つまりこれは自明」と思って省略してきた部分が実はコミュニケーションの要だった、というか。

おそらく人を不安にさせるコミュニケーションの仕方を長らくしてきた。必要なところで笑顔を作ったり、柔らかい言葉で指摘を投げかけたり、人との距離の詰め方はワンクッション置いて行う、という当たり前のことがきちんとできなくて、何度もエラーを起こしてきた。

なんでできないんだろう?とずっと思っていたけれど、それは何のことはない。自分の身に当てはめたときに自分が必要としていないからだ。そしてそれはASD傾向+視覚感度の高さによるものだと思った。そんなわけでこの記事では、世界を捉える認知傾向の感受性について考えてみる。

わたしの見ている現実世界の視覚情報は、どうやら多くの人のそれよりも解像度が少し高い。他人の細微な表情や会話の間の沈黙から、感情や意図はよく理解できる。状況把握も得意で、何がどうして起こったのかを的確に言語で説明することができる。そしてそれらの認知反応はあまりにも当たり前で、「みんなにできること」と思いこんでいた。みんなわたしの感じていることも見たらわかるでしょ、と。

実家の掃除では、部屋の隅のほこりとか階段の髪の毛とかお風呂場の湯垢とかに目ざといわたしが全部すかさず掃除していたのに対して、ほこりは特に目につかないのにモノが乱雑におかれていることが嫌いな母親に「掃除をサボっている」とくどくど叱られて、「なぜ!??」となっていた。

また、わたしは絶望的に地図が読めない。空間認識能力も低いし抽象化能力も低い。Google Mapのない世界線では今以上にポンコツだろうから、どう生き抜けば良いのかわからない。これは、認識が絵画的すぎるのかもしれない、と思うようになった。いうなれば、全部ストリートビュー。二次元静止画の世界をプロセス・保存するにはわたしのワーキングメモリ が足りていない。ストリートビューが途中でダウンするため、道に迷うのだ。下のツイートでいうと、スーパーがとてもきめ細かく脳裏に映る。

ちなみに視覚能力が少し高かろうが、それは才能というにはあまりにも些細だから自慢にもならない。芸大にでも行っておいたら伸びたのかもしれない。この視覚情報への感受性は、「世界の色や形が美しいから、もうちょっとこの世で生きてみようかな」と思える喜びはくれた。でもわたしは取り替えられるのであれば、自分に何の疑問にもたずにまっすぐすくすく育ち、必要量の挫折を経て成長する人間になることを選ぶ。

この話に気づいたきっかけは、メッセージの送り方だった。コミュ力の高い人のチャットから学ぼうとメッセージの模写をしてみたとき、わたしは「なんで必要以上に分厚く抑揚をつけるんだろう?」と不思議に思った。するとどうやら、多くの人には絵文字や感嘆符で抑揚をつけて初めて、会話のように捉えられるのらしかった。声色が付くと言えばいいのだろうか。親しい友達ほど句読点するつけないメッセージを送ってくると言うが、それは相手の声色や振る舞いや表情が予想できるからだ。私はそれに無自覚であまり親しくない人にもとても簡素で無愛想なメッセージを送っていた。メールならまだバレない、宛名や挨拶文に定型があるから。でもチャットはまた別だ。これでいろいろな人を混乱させたり不安にさせてしまい、結果的に距離感がうまく安定しなかったように思う。

認知傾向がどうであれ、自分と人の見えている世界が違うとわかったのは大事だ。自分に当てはめたらだめなんだな。

自分にとってはちょっと分厚めなコミュニケーションを、誰に対してもしてあげたらうまくいくのではと思う。そこで初めて腑に落ちて行動が定着するんだろう。マーケティングと心理学を自主勉強して多数派がどう感じ・動くかが少しわかるようになったし、思った以上に分厚くて綿密な実践をして効果を観測してみたい。

今でも捉えている世界を認識するだけで精一杯でプロセスが追いつかないことも多いから、いつも対処できることでは無いかもしれないけど、少しずつできるようになっていきたい。