「わきまえる女性を求める男性vsわきまえない女性」の構図の外側から

 

世界女性の日、なので普段モヤモヤとしていることを少し。

ちなみにこれは、ウェブサイト・かがみよかがみ の「私が○○を変えるなら」のテーマ募集に出そうかと思ったものの、長文になった・感情的・論点がガバガバで提出を諦めた文章です。一貫性はないけれどもやもやのツボは言語化できているとおもうのでこちらに掲載します。どうせ文中の湿度高めなんだから、ごろびよに載せている方が結局よさそう。

ちなみに、人前にでて声を上げられる強い方々がいるからこそ認知度が上がり共感を巻き起こして社会が変わっていくということはわかった上で書いた文でもあります。ポスト・フェミニズムをちゃんと勉強したい。

今年はじめ、森元首相の「女性はわきまえるべき」という趣旨の言葉が取り沙汰され、そしてそれに対抗して「わきまえない女」というフレーズやハッシュタグが現れたとき、わたしはどちらにも違和感を感じた。そんな虚像の女あるものか、と。

わきまえるべきだという前提を押し付けられるのも嫌だし、わきまえないという自覚を持って生きるのも、結局他者のために心を使い尽くすことだと思った。「わたしは、わきまえない!」なんて決意したくない。相反するものに身構えたくない。他者にどう見えているかを考えすぎることなく自分らしく穏やかに暮らすのが、どうしてこうも難しいのだろう。

自己主張で自分の居場所を勝ち取っていくという生存戦略は、どうも自分には向いていない。わたしには、そんな体力はないのだ。同時に、あえて主張しない人間には安心して既存の自分の価値観を押し付けていい、という雰囲気が醸成されているような気がするが、杞憂なんだろうか。

わたしはフェミニストという言葉、そしてフェミニストと標榜される人たちにまとわりつく「他者」というラベルにも、ずっともやもやしている。”Man hater”(男嫌い)と同義で攻撃的なイメージがあるということだけではない。凛として一線で活躍し、明晰な言葉をメディアに載せる、それがフェミニスト。そういう視線が男女問わずから向けられている存在に見える。

『フェミニストvs敵』のバトルをそれ以外の群衆が観賞する、みたいな構造。そんなもの存在しないのに。フェミニストという特別な知識や思想を持ったグループがあると思っている。フェミニストという言葉のつつみこむ円周に片足でもつっこもうなら、そのための通行証が要るような気がする。髪の毛をピンクや緑に染めて、自分の主張を明確にパブリックな場で主張できるような社交性を持ち合わせないといけないのか。見た目や個性的な振る舞いでアイデンティティを主張しないフェミニズム論者はメディアに映えるフェミニズム言論には上がってこない。ごくごくふつうのロールモデルなんていないのだ。

また日本のセクシャリティーとジェンダー観は、そのカタカナ言葉が流入して以来、混迷を極めていると思う。今まで信じてきたものを急に覆された人々が「じゃあ、正解はなんなんだ!?」と目を血走しらせて漂着すべき岸辺を探している。世の中、性自認がマジョリティだとしても、男性が男性であることに・女性が女性であることに戸惑っていることが多いような気がする。性別が女性だ・男性だと言っても一辺倒なわけがない。キラキラしている歌舞伎町を闊歩する女の子と、怖い人が強引に話しかけてくる歌舞伎町を急いで通り抜ける女の子が一括りにされて、一枚岩のフェミニズムが出来上がるわけがない。

色々あっていいよねとは言いつつも、それなりにイケてる形というのは確かに存在している。多様性という言葉が、最近行政や企業のお好みとしてよく聞かれるようになった。でもそこにくくられるものの中にはほんとうの貧困層や失業者や障害者やブスの姿は見えないことが多い。みんな「いい感じに見せる」技巧を高めすぎた結果、本質を取りこぼす。性の多様性だってご多分に漏れず、ポリアモリーやパンアモリーは多様性で、小児性愛や獣性愛は異常性愛だ。その違いは相互に同意が取れるかどうかで、先天的かどうかは関係ない。どうしても「いい感じ」に仕立てて見せることができない存在にまとわりつくタブー感は、見て見ぬ振りを誘発し議論は進まない。

女のエンパワメントだってそうだ。女性が女性らしく、いきいきと。自分のためにメイクをしてヒールを履く。美白、脱毛、アンチエイジングで自信をもてる自分に…。自分のためにキレイになろう。一面ではボディポジティビティの代表的なアイコンになっている芸能人が、脱毛の広告に出ている。

「素のまま」じゃあだめ、まともな人扱いをされない。その暗黙の閾値を超えた側から見ている人々は、そこに至らない物を見ると興味を失い視界に入れなくなる。そしてそれはほとんど無意識に行われる。だからポジショナリティの確保は、自衛のための必須要件だ。みんな、「ポリティカルコレクトネス」という概念で監視されているのはわかっているから、自分を守るために大っぴらには言わないけれど、内面で評価を下しているのはよくわかる。評価されているだろうなと思ってしまう自分も、その評価を取り込んでしまっている。

ずっと、わたしは女性であることが怖かった。わたしがわたしである時に、わたしが意図しない反応が暴力的に飛びこんでくるから。自分が無意識に持っているものに価値を勝手に見出されてしまう、あの感じ。人としてやさしくしたら、女としてつけ狙われる。わたしとしてふるまったら、女というカテゴリで比較して評価される。それが嫌でしょうがない。

心理的にはどうしようもなく女性性を自覚するのにもかかわらず、身体的な女性性で一方的で暴力的な評価をされたくなかった。だから低くて理知的な声で話し、サバサバした笑い声を上げ、中性的で地味な装いをし、会話の中の性的なシグナルをかたっぱしから折った。そんな自衛策をしているのに恋でもしようものなら、自分の中で整合性が取れずどう振る舞っていいかわからなくて、もうめんどうくさい。

もし自分が世間のスタンダード的にとてつもない美人で、生まれ持ったものを褒めそやされてきた人生だったら、これは肯定的に捉えられたのだろうか。そんな想像を巡らせても答えが出るわけはないけど、とにかく知的生産やスキルセットの話でわざわざ性を感じるなよ、その前に一個の人間なのだから、と思うのだ。無意識に性を感じてしまうとはいってもそれを理性で包んで行動するのは社会的人間だし、個人をその個人として判別する術(すべ)は後天的に身につけられるでしょう。人の技能や知的傾向の性差は統計的に有意だけれど、個人差の方が大きい。身体的構造は違うのだから女性には女性にしか見えない世界があるから、その属性でしか見えない景色について話す段階になって性を持ち出してほしい。

わたしはメディア論壇の作り出すイメージではなく、すみやかな明文化と法整備で解決がされる世界がほしい。そして緑の髪の毛でフェミニズムを語るアクティビストと同じ属性で括られなくても、軽やかに駆け抜けられる世界がほしい。