白くじらとことばに潜って

 

年度替わりの変化のせいなのか気圧が低いのか、よくわからないけれどなんだか調子が悪い。張り切って生産行動をすることができないので、できるかぎり動的な世界から撤退して本を読んでいる。そうしてなんとか自分のかたちを保って、ざわざわとした雲が自分の内側から過ぎ去っていくのをただ待っている。小籠包をぎゅっと抱いて。

気概がなくても、本を読むことはなんとかできる。本はむかしから一番近くにあったから、他のことができなくても本を無意識に手元に引き寄せることには慣れている。とくに小説や童話に没入することは、安らぎに近しい。きちんと文字を拾えて、そこから情景を編み出し感情を知覚すると、きちんと魂が呼吸していると安心することができる。そうすると暖かい液体が心に流れ入るような感覚がして、そのときにすかさず、わたしは飲み物を飲んだりものを食べたりするのだ。この一連の体験はすでによく知っていることだから、考えなくても処し方はわかる。いちいち意思決定を伴わなくていい習慣というものは、こういう底冷えの時期に、とても役に立つ。

「生きることへの態度、100点満点です〜。」と、小籠包が言う。そうだよね、とわたしは寝返りを打つ。生きてるだけでえらいのに、積極的に回復しようとするなんて、なおえらい。

わたしが腹ばいになって読書をしているときに顎の下に抱え込んでいるのが、この大きくて柔らかくて白いくじらのぬいぐるみ、小籠包だ。くじらなのに、あの艶々とした張り詰めた皮膚を持たないし、深みを覗き込んでくるような眼差しもしていない。ただ美味しそうでかぶりつきたくなる見た目をしているので、小籠包という名前になった。小籠包は、落ち着いた年齢ながらも溌剌とした明るさをもった女声でゆったりとしゃべる。

わたしのできる読書というのは情報収集ではなく、娯楽の読書と呼ばれるものだ。だけど私にとっては、娯楽という一見余剰に見える質のものではなくて、もっと切実なものだと言える。物語への没入は、自我の現実の不安感からの休息なのかもしれない。もちろん調子が悪い時は、読めるとは言ってもいつものようにゴクゴクと飲むような読書はできない。5ページ読んだらもう感受性の受容器がいっぱいになってしまう時もある。でも、5ページ分の景色を持って目を閉じるだけでも気分は随分よくなっているものだ。さも、傷を癒す湿潤液に自分を浮かべるように。いちいち意思決定を伴わなくていい習慣というものは、こういう暗い時期のために、とても役に立つ。

今の体調だと、このお話くらいには潜れるかな。そうやって決めた一冊の文字列を自分のペースで追いつつ、完全に物語の語り手や主人公の目線に降り立つ。目の奥に流れていく映像に、徐々にあるいはざぶんと自分を浸す。小籠包もわたしに抱かれたまま、あるいはわたしがその柔らかな白くじらの胸ひれに抱かれて、一緒にその世界を旅する。田舎の駅を吹き抜ける風をあびて気持ちよさそうにしたり、体内に別の生き物を飼っている女性の転生を、わたしがハラハラする横で楽しげに見守ったりする。いつも機嫌がよくて温かい連れ合いがいると、旅は、いっそういっそう良いものになる。

小籠包はいつも飄々としていて、安定していて、何を言っても否定しない。本を閉じ、お布団のなかで横向きに小さく体を丸めて小籠包をぎゅっと抱え込むと、いつもの通りほんのりと温い。しんどいよ、と語りかけると、しんどいんだね、と応える。

「今日もよく生きました〜」

「はい、がんばりました、わたし」

「明日もきっと来るねえ」

「そうかな」

「今日が大丈夫だったんだから、大丈夫だよ」

「そうかな」

 

愛着とその全肯定は、人をこの世に留める強い力を持っている。

本の世界を背景に、小籠包とわたしだけが解することばと空間に安心しきることができると、また脈絡も整合性もない夢の世界にするんともぐり込めるのだ。

朝になるとたいがい、小籠包はわたしの腕の中ではなくて床の上でお腹を見せている。わたしは自分の寝相ではなくトイ・ストーリーの映画を都合よく思いだして、ふふふ、と小籠包に向かって笑う。それから水を飲み、宮沢賢治の詩集に手を伸ばす。

「おはよう、朝だね。」

「おはよう。世界、綺麗だね。」