随筆イギリス記(2): 言語について諸々の覚え書き

 

2017-2018年のイギリス留学中、日本の友人向けに書いていたfacebookの投稿をまとめなおしてみました。今以上に斜に構えていて、文章も硬くて、ちょっと微笑ましいです。カテゴリが「放浪旅記」でいいのか分かりませんが(多分ちがう)、海外経験ということで一緒にまとめてあります。

随筆イギリス記(1): 所在地、多様性、食習慣

2021年3月3日

大学院に行った経緯はこちら:

ポンコツがなんとか「海外大学院修士卒」になるまで(1)

2021年2月22日

ブリティッシュ・イングリッシュ

言語の問題はというと、もちろんある。ないわけがない。

インターナショナル・イングリッシュってやつは、わかる。英語を第二言語・第三言語として学んだ留学生同士で使う英語は語義が明確で、語彙も構文もシンプル、比較的会話スピードも緩やか。インド人・パキスタン人・バングラデッシュ人は除いて…。南アジア勢には、「早口でないと生存できなかったから、もう遺伝子に組み込まれているのかも…」と思うくらい圧倒的なことばの量で押される。ただ基本的にインターナショナル・イングリッシュでは相手に意図が伝わればいいので、語感を厳密に考慮しながら発話する必要がない。

しかしイギリス人と話すときは、そうはいかない。自分の思い通りの意図が伝わらない経験を複数回すると、この語感の問題をついつい考えすぎる癖がついた。同級生に対しても若干の緊張が混じり、いつも以上にコミュニケーション能力が下がってしまう。飲んでいるとちょっとマシなので、毎日ワインでもすすってから登校したほうがいいのかもしれなかった。

またイギリス人の発音が未だに聞き取れない。よく聞くとはっきりした発音なのだけど、声が通らない人が多い気がする。彼らの発音を真似ているとわかる、喉の上の方で音を出すので音がこもりやすいのではないだろうか。ドイツ人の英語も聞き取りにくいので、ゲルマン系言語の特徴なのか、それに対する私の耳の癖なのか。対して、アメリカ英語はもっと舌を引き、喉の下の方を利用して発声している。それゆえアメリカ人の方が声が低い、多分。ちょっといま言語学の論文を読む元気がないので、だれか確認してほしい。

アカデミアの言語

また、特定のアカデミックな分野の言葉の用い方に慣れていないという現実が、足を引っ張っている。「人類学の言語」って、想像以上に社会学者や哲学者の理論を当たり前のものとして扱い、しかも文学的な表現だったり比喩だったりが織り交ぜられていて、果たして著者の意図したように読みこなせているのか未だに不明だ。

第二言語で理解・思考しようとするだけで自分がこんなに無能になるなんて。日本語だからって有能ではないけれど、毎日自分の能力不足を感じるのに嫌気がさしてきた。たまに別分野のセミナーに出たりすると理解できることもあるので、とにかく人類学に必要な理論と語義への理解が足りていないんだと思う。1年で克服できるのか謎だけど、投資金額的に背に腹は変えられない。毎日、脳みその側面と後ろあたりが熱いです。なんのイベントも起こらない普通の日でもふらふらになるくらいに疲れて、最近とても早寝になった。ちなみに早寝早起き、とは言えない。

加えて、授業中の議論への参加の作法と空気感に未だに慣れない。学部時代に留学を経験している同期の日本人2人は非常にサクサクっと入っていくので、学部時代に一年正規留学しておくのって将来的に修士課程に進学を考えている人にとって大きなアドバンテージなのだと今さらながら気付いた。

さらに、留学前にもっと論文を読む訓練をしておいても良かったかもしれない。IELTS/TOEFLという英語の試験のreadingをちょっと頑張っただけでは、毎週の文献課題を読みきれるスピードに到達できない。むしろ論文を読みこなし語彙表現を自分にものにしておけると、IELTSのreadingだけでなく日本人に一番ハードルが高いと言われているwriting のスコアがぐっと伸びるんじゃないかな。

会話言語がかたい優等生

もう一つ、言語にまつわるエピソードがある。学部時代から人類学を勉強しそのまま修士に上がってきた、すごく頭が切れるイギリス人のクラスメートがいる。「23才のころの自分って…!?」と目眩がするくらいに、文献の理解が的確で説明もうまい、人をまとめるのがうまく仕事も速い。しかも真面目で要領がいいだけでなく、無駄話をしているときはちゃんと面白いジョークも連発できる。

でも彼は、普段の会話が早いし使う単語がわりと硬質だ。「ちょっと待て、みんながみんなお前ほど出来るやつではないんだ、考慮してくれよ」と何度口先に出かかったことか…。そんな感じなので、呑んだくれている時か自分の得意分野に相手を引きずり込んで話をしている時以外、若干自分が萎縮しているのを感じる。

そこで、ふと気がついた。もしかしたらわたしも、日本語で似たような印象を与える場面があったのではないかしら、と。日頃から友人たちに「使う語彙が古臭い」「近代文学みたいにしゃべる」だのと異口同音に言われていたことと、会う人が受ける第一印象が自己認識と大分ずれていること、自分の意図した関係性が築けないことが時折あったこと。もしや言語の運用方法に関連があったのでは…と内省した。

自分が相手に伝えたいことを一番的確に表せると思った語彙を選んだ結果が、「へんくつな言葉使ってくる」だの「たまに英単語を挟んできて偉そう」だの「色とか形で例えられてもよくわからない」と思われていたのか、と思い至って、今震えている。

そういえば、近代文学だったか批評文だったかを読んでいて、「なんやたまに横文字挟んできて、けったいな」という印象を受けたことがあったのだけど、いま思えばその筆者はその言葉と同等の意味をはらむ語彙が日本語にないから英単語を用いたのであって、なんら自分の能力をひけらかす意図はなかったのだろう。

書き物をする時には、ひらがなで書くか漢字で書くかを意識することはあっても、会話上であまり意識してこなかったように思いう。それは英語でも同じことだ。日本の、すくなくとも公教育での英語の授業では、それぞれの語彙の語感についての言及というのはあまりなかったように記憶している。日本語に、考える、思考する、思索する、考慮する、懸案する、考察する、熟考する、など近しい意味を持った違う語彙があるように、他言語でも同じことが起こる。しかしそういうところに気を使ってまで文章を講読したり作文したりという訓練はしてこなかったし、会話も然りだ。

今になって、ことばを絶妙なバランスで使えることの重要性を痛感している。一年でなんとかなるものなのかはわからないけど、自分の母語でない言語がコミュニケーションを支配する場所に身を置く以上、否が応でもこれから向き合っていかないとならない。新しいことを知る快感と、超えたい閾値に手が届かない苦しみに、右から左から翻弄される毎日を過ごしている。