親切で賢いあの人が「重い」理由

 

昨年知り合った人たちにの中にひとり、反面教師にしている人がいる。ここではシノダさんとしておこう。シノダさんは、とにかくいい人だ。ただなんというか、『重い』。

シノダさんとコミュニケーションをとった後はとても疲れる。なぜかというと、めちゃめちゃ自己開示が分厚いのだ。全てを細微に垂れ流しているといったらいいだろうか。話もメッセージもばか長い。

シノダさん本人はとにかく現実への解像度が高い。自分の居場所の状況や他人の様子もよく見ているしそれを言語化できる。だけどその精度で観察したことをすべて他人に伝える必要はないことを、むしろそれは負担をかけることだと、自覚していないのだ。

もう一つ、厄介なことにシノダさんは感情がばかでかい。他者を慮る理性をすっぽりと包んで行動をのっとってしまうような怪物を飼っている。手に余る感情の大きさは、その持ち主をも無自覚に翻弄する。

感情が大きいという言葉の裏にはわたしなりの理論があって、それは感情の大きさとその受容器の大きさ、そして知覚した感情を処理するしくみの精度は全部ひとそれぞれだということだ。一言で感性が鋭いとか言われてまとめられてしまうことが多いし、行動の面からの議論で自分軸・他人軸という言葉でくくられることもある。脳科学や心理学の専門家ではないのわたしが世界を理解するためのフレームワークだけど、感情を大きさとその危険さを自覚しているだけで、だいぶんと対処のしようがあるのになと、同じくばかでかい感情に飼われているわたしは考える。

一人行動が得意な、寂しがりや。こう形容できるようなシノダさんには、自分のことばをそのまま理解してくれる人があまりいなかったのかもしれない。一度理解されたと見てとると、自分のしていることや考えていることを喜んで共有してくれる。それは細かく細かく教えてくれるのだ。また、いろいろ気を回して情報を教えてくれたりものをくれたりする。しょっちゅうケーキを自分で焼いたり工作をしたりして、喜んでくれるのが嬉しいからと微笑む。

わたしにはもともと、自分の世界にひたり早口で相手の理解を確認せずに話しまくるような知り合いは少なくないし、その人の言っていることはわたしによく通じる。シノダさんに会うまでは知らなかった。理解できることと、受け止めきれないことがイコールでないことに。

あまりにも微細に情報を共有されあまりにも細やかな善意で扱われた結果、わたしは疲れを感じてしまった。いうなれば、『焼かれたくない世話を焼こうとする押し付けがましい人』だと見えるようになってしまった。「受容して!」という欲求の叫びがあまりにも重たく感じられた。

3月。春になって、景色が目まぐるしく変わっていく。動植物がうちに蓄えていたエネルギーを一斉に世界に発していて、まるで草木の息吹が音を立てているようにすら思える。それを感じとることにすら忙しく感じるようになったわたしは、善かれと思い細々と自分に気を回すシノダさんから距離を置いた。

解ってほしい気持ちが少しばかり他人より強くて、そして他人のことも自分が求めるのと同じくらいの熱量で解ろうとする。優しい人だ、だからこそ申し訳なく思う。ただ、我慢をしないように生きると決めたばかりのわたしにとって、自分が求めているわけではないものごとを溢れんばかりに手渡されるのは大変なことだったのです。

ごめんなさい、どこかあなたの優しさを生かせる別の場所を探してほしい。わたしは、そんなに要らない。

わたしがもう少し度量の大きい人間だったら、シノダさんに会うコミュニケーション方法を一緒に探すこともできたのかもしれない。もう少しガス抜きが上手い人間だったら、初めからうまく距離を取れていたのかもしれない。相手に受け渡すまごころの、ちょうどいいバランスってどう感知したらいいんだろう。そのためのメソッドは言葉として説明可能なのだろうか。

「モノを人にあげて嬉しい人なら、もらっといてあげたらいいじゃん。色々語りたいことがある人なら、とりあえず送らせてあげて、適当に短く返せばいいじゃん。」合理的で実利的な知人はそう言う。彼女は、他人の意図や想いを自分の感情に取り込まないような精神構造をしているみたいだ。残念ながら自分はそううまく割り切れるようなつくりをしていない。

『自分の解ってほしい方法で他人に自分を解ってほしい』とか『自分をそのまま丸ごと解ってほしい』と思っている人は少なくないと思う。というか世の中、ほぼそんな人ばかりだ。でも多くの人は目の前のコミュニケーション相手に合わせて必要な情報を調節している。相手が理解しているか、共感しているか、その反応を自覚的に見ている。

わたし自身も、もともと『自他の境界線』が薄いまま育ち、余計にもなりうる気を回しがちだ。たくさん失敗をしてたくさん痛みを感じ、『理解をしてもらいたいなら他者のペースに合わせるのが礼儀だ』と思い知ってから慌ててツマミを後付けした。だから今でもたどたどしくしか情報のチューニングができない。

自己犠牲に見えたって他人に喜んでもらうことが嬉しい。それで一生懸命動く気持ちはとても理解できるのだ。でも自分がしてあげようとしていることを相手が本当に望んでいるかは疑わしいということを、わたしは知っている。そして、ずっとそうやって考え続けるのはけっこう苦しいということも。

ここまで生きて、やっぱり結局他人とは分かり合えないというのは事実だと思った。その前提に立って、他者と自分の世界を切り分ける。それと同時に、奇跡みたいな少しばかりの分かり合いを期待するのはやめない。その望みをかけて相手に心地よいように気を配る、言葉やイメージやふるまいや表情で、なんとか自分を伝えようと格闘しながら。それが適切な社会への態度な気がしている。

現実に期待しすぎないことが、他者への気遣いの根底にあるのかもしれない。全力を出さないほうがうまくいくこともある。

わたしが柔らかく突き放したあの人に、自分が言葉を届けられる日がくるのかはわからない。高い知性を持った人だから、他人に投げたボールの重量が打ち返せるものではないことを、すぐにでも気づく日が来るのかもしれない。想いを器用に分散させられるようになるのかもしれない。またはそれよりも早く、あの細微さと膨大さを軽々と飲み込み愛することができる人が現れるのかもしれない。

「未来がどうであれどうか孤立感を深めることなく幸せに生きてください、身勝手ですが」と、風吹き抜ける水面を見ながら祈った。

愛が大きすぎるんだろうな、きっと。それを上手に分散させられた時、見える景色は一変するだろう。