反射的なコミュニケーションが苦手な人間のことばの置き場所

 

最近やっと言葉が感覚に追いついてきた気がする。きっと他の子供よりも遅れて発話しだした3歳児のように、話したくてしょうがない。

そもそも身体を使って雄弁に語るのがあまり得意ではない。反射的なコミュニケーションの場では編集しきれないようなノイズが多い思考回路をしているし、そもそも感覚的に言葉で言い表せないことも多い。

例えば痛みですら7・8種類くらいある気がするのに、一語で伝えられない。でも共有できない痛みの感覚を説明するのに相手の時間を10分も取るわけにはいかない、この場の話題は痛みの質ではないのだから。だからいつも苦々しく思いながら「痛い」という単語を使う。「すごい」とか「やばい」という言葉の膨大な包括範囲に関してそう感じている人は多そうなので、そういう感覚だというと分かりやすいかもしれない。

世界には圧倒的に語彙数が足りていないと思う。でもそれをなんとか表出させようと比喩を多用すると対面コミュニケーションでも文芸ことばで話すことになって、コミュニケーションを切り替えられない変なやつだと警戒心を持たせてしまう。

人は不安を感じた相手の言うことをすんなり取り入れてくれないものなので、結果的に自分の発言を今より一層届けることができなくなる。そして、そんなことを考えているうちに非言語の部分でのコミュニケーションに回す制御機能のキャパシティが足りなくなって、ぶっきらぼうで縮こまった身体のままで相手にうっかり対峙してしまう。

たぶん第二・第三言語で話しているほうがニコニコリラックスしていられるのは、そもそも手持ちの語彙で縁取れる枠が少なくて表出する情報にそこまで選別の手間がかからないからだ。逆に、深く理解し合いたいと思った人の前だとよけいに緘黙してしまって誤解されやすい。

だから国内海外問わずの友人知人とつながっているフェイスブックにそれなりに頻繁に投稿をしてきた。コミュニケーションに即時性を求められないツールが汎用的だなんて、いい時代に生まれたものだ、と思いながら。FBがオワコンのSNSと言われようが、国内海外のつながりを一括で管理できるところや自分が思い出せるようにしておきたい目的も達成できるところも都合がいい。

わたしにとって、文字や視覚イメージで人と意思疎通を図ること自体は性に合っていると思う。でもインターネットの急流は加速し、よりトリッキーになってきている。

短文投稿系・音声系のSNSはどうも合わない。忙しい現代人の限られたリソースを使っていただける質を担保したまま制限文字数でまとめられることが、わたしにはとても少ない。会話の自己表出すら戸惑ってばかりなのに、自己を編集してキャラ化し不特定多数に提示するなんてできるはずがない。

一方でSNSが全くなくても寂しいものだと思う。わたしの社交エネルギーの量だけだと、今まで出会った素晴らしい人たちと関係を維持するのは難しい。わたしのバカでかい感情と愛着は、人生のフェーズが移行するごとに自然と人間関係が薄れていくことを許してくれない。それをなんとか食い止めたいという欲求がある。一期一会もそれはそれで面白いのだけど。一度味わったものを忘れてしまうことに罪悪感すら覚えるのは、すっかり現代先進国の病だなと思う。

そんなわけでFacebookを使っていたのだけど、それだって読みたい人が読みたいものを読みやすいメディアでもないと思う。だって、こういう話はあらゆる種類の人間関係が詰まっているところに垂れ流すべき手触りをしていない。やっぱり年賀状がわりの近況報告に一番適性があるのだ。

去年からこのブログを始めた。ブログサービスを使うにしては遅かったけれど、やっと必要なところにたどり着いた実感がある。むかしは自分の知らない人を悪意ある他者かもしれないという前提で警戒していたから、なにもうまく表出できなかった。でもその前提からものを見るのをやめた、やめられた。えいっ、と飛び込んでみたらそんなに難しいことではなかった。

だから今、書いていてとても楽しい。