推し芸人のライブ、それは狂気と逸脱の人間愛

 

最近 “推し” ができた。

あまりなにかに激ハマりすることはないしお笑いなんてこれまで全然見てこなかったのに、いきなりアングラっぽいものにハマってしまった。そして “推し” なんて言葉を使う機会が自分にもやってくるなんて、思ってもみなかった。

推しはピン芸人で、テレビ露出もないニッチな活動をしている。芸人という言葉から想像するイメージより静謐で味わい深くて狂気をはらんでいる。賢そうなんだけど一周回ってアホっぽい。だから、どうせなら “不条理文学的大衆現代パフォーマンスアート” とかって呼びたい。判然としないごっちゃ煮な感じで、ひんやりとしながらも余韻はあたたかい。なんだろうこれ、新しい感覚だな、と思った。

推しのことはHuffpostNoteの記事を読んだりTwitterで見かけてはいて、発想の面白い書き手だなと注目していた。

ついこの間も、この記事でバズっていた

そこからYoutubeのライブ映像を少し見て本業も魅力的だと気づき、コントライブに行ってみたら想像以上に色々感じることがあって「末長く応援させていただきます」という態度をとるに至ったわけです。

推しについて、推しを推しと呼び続けることについて

推しは、暑くも寒くもない狭間にある月の名前を冠している。一月・二月とかのあの月だ。ちょうどいい気候だけど花粉症にも苦しまなくてよくて、美味しい秋の味覚が出回る時期。わたしは自分の好きな花であるヒガンバナが咲くからいつも浮き立つ心地がする。

気恥ずかしさを感じるので推しの正式名称は文中では出さない。リンクを貼るくらいにしておく。

自分の心理的障壁を因数分解してみると「本人にエゴサで見つかったらどうしよう、イヤだな」と感じているらしいのだが、どうしようも何もない。特に何の問題もない。でも、なんかイヤ。

その理由を考えているとそれだけで長くなったので、また記事を分けて書くことにしよう。

さて、推しの話に戻ります。

推しは、ラーメンズから “都会的に整然としたオシャレさ” を引いて下品さを大胆に足したコントをする。例えば、ずっと叙情的にうんこを連呼するコントが複数ある。わたしが気に入っているのは『受験はクソ』と『一業日記』。この2つはコント全部から見ても五本の指に入るくらいに好き。

わたし、うんこ好きなのかな。うんこって大声で言ってる大人を見て、すっきりさっぱりカタルシスを感じている。そういえばわたしは、イギリスの大学院でもインドの排泄習慣調べてたしな。隠されたものを知りたい性分なのと、たぶんお行儀よく振る舞ってしまう自分がイヤなんだろうな。うんこを連呼するコントから発見できるものは多い。

上のコント動画を見てもらうとわかるのだけど、ラーメンズに向かってはできないような下卑た笑い方をしても許されるような雰囲気があり、そこがけっこう気に入っている。秩序の外にやすらぎを見出したい人への毛布って感じ。

他者との接続の連続である現実で傷つくことが多い人こそ、お笑いに救われるところが多いと思う。それが初めて実感として立ち現れたのが推しのコントだった。

逸脱の狂気の中へいざなわれる体験

心理学に “単純接触効果” と言って『初めのうちは興味がなかったものも何度も見たり、聞いたりすると、次第によい感情が起こるようになってくる』という理論がある。 たぶん推しへの導入はそれに近かった。Twitterすごい、怖い。

推しはTwitterで気の利いたあるあるネタを投下しているので、よくバズる。面白いのでTwitterでフォローしていたら、しばらくしてライブをする告知が流れてきたのが目に入った。それがなんと家から1km先くらいの場所で行われるとのことだったので、「最近外に出てないしな」と予定調和を乱すべく出かけることにしたのがきっかけだ。

そんな動機で見に行った生のライブはすごかった。予習は礼儀だろ、と思ってYouTube のコント動画はまぁまぁな本数を見てから行ったのだけど、ライブの方がよっぽど面白かった。全自作自演の老若男女カメレオン芸、狭い空間に狂気が反響する。推しのひとり芸なのに、目の動きで感情が、空間をみつめる場所で会話相手のキャラクターの姿が、それぞれくっきりと浮かび上がる。演者と観客のあいだには2mくらいしか間隔がない。観客がこんなに近いのに、そんな絶妙な場所をよく見つめるもんだな…と思って観ていた。

推しのコント開始の切り替えは本当に一瞬で、ゾーンの入り方にプロを感じた。推しご本人がタバコ休憩中だから、と他のお客さんと喋っていたら、タバコを吸いながらじゃないとできないコントが急に始まったり。でもコント終わりに現実に戻ってくるとき、若干の照れ表現を入れてくるのが人間っぽくて好きなポイント。

また “不摂生な知的生物” とでも形容したくなるような化け物じみた風貌の、どこからあんなに突然たおやかさを取り出すのか…声色の切り替えが緻密で、老若男女の演じ分けのするどさとそこに至る観察眼に舌を巻くしかない。推し本人は幕間での会話で「自分に近いキャラを作り演じている」と言っていた。推しのコントではキラキラした目の可憐な少女は演じられていないが、髪を振り乱した鬼畜老婆は出てくる。鬼畜老婆と自分が近しいと思っているのか、推し。

作品の中では、純化した “現実から一歩逸脱したところ” を見せつけられた。でもそれは日々他者との分かり合えなさに折り合いをつけ続けるしかない、わたしたちの現実そのものなのかもしれない。いろんな人が経験するどうってことのない日常が描かれていると思ったら、いつの間にか踏み外している。繰り返されるセリフの渦にまきこまれ、だんだん場の狂気が自分の狂気に見えてきて「あれこれ現実かな、現実だったら目の前の人は気が狂ってるのかな、それかわたしの気が狂ったかな…」と不安になる。しかしその狂気をはらんだようなキャラクターの葛藤に、いつしか共感している自分に気づく。ズレと普遍性のバランスが絶妙なのだ。

 

緻密な伏線回収があるネタもあるが、高尚なことを言っていると見せかけて「くっだらね〜」と笑えるネタも多い。あと、現実とのずれにゾワゾワする設定のコントが多いのだけど、出てくるキャラクターがことごとく愛おしい。対話形式のコント作品の多くでは、一方がどこか社会通念から逸脱した人物で、それを解ろうとする相手もまたズレていく様子が軽妙に描かれている。ああ、この作品の作り手は世界と人間を慈しんでいるのだな、と観て取れる。その感覚がすこし歌手のCoccoっぽいなと思った。そう思ったら、推しの容姿もちょっとCoccoに似ている気がしてくる。目元と、笑った時の口元のかたちが似ている気がする。どうでもいいな、うん。

あと、事実のスケッチをベースにした作品も多くて、例えば殺害予告をうけた実話のコントなんてのもある。推しがイラッとしたとか疑問を感じたエピソードのコントも多い。推しにとって自分の日常世界に絶望せず優しくある態度が、コントという手法なのかもしれない。そんな推測をしたところから、わたしは「分かりあえなさで自分を傷つけるばかりが方策じゃなくって、それを面白がって生きることもできる」という風に視点を転換することができた。わたしもしょせん人間ですし、人間を好きだと素直に感じられる態度に落ち着きたくて四苦八苦してきたところがあるから、この気付きはかなり気持ちを楽にした。

ところで、”芸人”という言葉からわたしが受ける印象と推しのイメージの解離が大きい。芸人というより落語家に近い印象を受ける。そういえば、以前から落語は好きだ。大きな動きも着替えもないのに、落語家の声色やしぐさひとつで簡単に情景に引き込まれてしまうあの不思議な感じをどうにか解き明かしたくて何度も動画を見るのだけど、それでもなお落語家の掌で転がされるばかりだ。そして、それはそれで気持ちいい。推しのコントをライブで見てみた時、それと近しい感覚を得た。コントや演劇だけじゃなくて落語やパントマイムの研究もしてるんじゃないだろうか。そういう動き・声音・内容だった。”お笑い”・”芸人”という言葉で思い浮かびがちな、ギラギラした雛壇と大きなジングル・たたみかけるテンポの大声を嗜好しない人でも楽しめる笑いがあるんだな。

臨場性と挙動不審なわたし

コントライブから退出したとき、わたしは相当に覚醒しながらも疲労困憊していた。相当量のお酒を飲んでいたけれど全然酔えない、すごく醒めている。その日は寝付くのにとても苦労した。

まず久しぶりの臨場性に当てられたっていうのがある。どんどん繰り出されるコントの数々、変幻自在の身体性、他のお客さんたちの様子、夜の冷たい空気、会場に漂うほんのりとしたタバコのにおい(タバコのにおいは好きだ)。それらをありったけ認識しようとするだけで自分の少ないキャパシティが追いつかない。ずっと浮ついている自分の知覚と感情へのメタ認知も止まらない。それに、わたしはそもそもライブパフォーマンスを見に行くなんてほとんどしないので場の新規性が強かったこと、観客がほんの少数しかいない中で自分が一個人としてパフォーマーに認識されているかもしれない状況にも緊張感を感じた。壁になりたかったし、できるならこの臨場感のまま液晶スクリーンの向こう側に立て篭りたかった。まだまだ見てたいけど、でも早く自分のお布団にくるまって安心したい…そんな気持ちだった。

さらに、受付もMCもコントも全部一人でやっている推し氏を前に、「うわっ、作品の中でしか見たことがないニンゲンが普通に喋ってる」と思って、キョドった。絵画を鑑賞していて急にそれが喋りだしたらびっくりするでしょう…そういう感じ。それから「観衆ってどういう振る舞いをすべきなんだ」としょうもないことを考えてしまった。あまりに社会性がおぼつかない30歳である。つらい。今後がんばりたい。

そんな緊張感があったから、コントを見ながらひとり、持ち込んだお酒をずっと飲んでいた。お酒で感覚を鈍麻させることなしに空間にいられる演者も他のお客さんも本当にすごい、なんて考えながら。

(友人の背中に隠れてお酒を飲んでいたのを見つかり、その次に見せてくれたコントの別ver.がYoutubeに上がっていました。ちなみに何でも持ち込みokだそうなので堂々と飲んでてもよかった。)

一人だったらその臨場性に耐えられなくて逃げ出していたかもしれない。一緒に行った人がいたからよかった。ライブイベントは気になるけどいつもドキドキしてなかなか足を動かせない。だから誰かを誘って約束し、動かざるを得ない状況を作る。今回もそのために誘った友人が偶然推しのツイッターフォロワーで、誘ったことをとても喜んでくれた。わたしこそとても嬉しかった。

友人と一緒に行ったのにわたしは横に座らなかった。連れ人の姿を常に視界に入れることによって強すぎる場の刺激による心のざわざわを鎮めようとして、後ろに座っていた。多分ふつうに考えてちょっと不思議な光景だっただろうけど、それでも何も言わないおおらかな人も世の中にはいるのだ。

さいごに

臨場性、身体感覚、内容。どれをとってもこれまでの認識を改めるような強烈な体験をもらったコントライブだった。推しの作品はおそらく見る人を選ぶ芸風だけど、周囲にはこれから人目を憚らず推していきたい。結果として、感性が合うかの資金石的作用がある(友達の総数が減って一定方向に純化しそうな)気がする。でも推しを面白がる人とは、純粋に仲良くなりたいと思う。分かり合えなさの痛みの先に、同じコトバを解す人たちとの安らぎがあるかもしれない。

余談だけど、”推し” とはいい表現だなと思う。『自分が熱狂を感じ応援したい対象』『自分がファンである対象』を一語で表せる。ほかと代替不可能な新語なんじゃないか。推しはキャラクターでもいいし、アイドルでもいいし、作家でもいい。流行語としての “ぴえん” や “〜しか勝たん” はなんとなく使えないけど、推しは利便性がいいので自分の身体になじんだ単語になっていくんじゃないだろうか。

推し文集