推しに認識されたくないから推しの名前を書けない

 

最近推しているコント芸人がいる話をした。

推し芸人のライブ、それは狂気と逸脱の人間愛

2021年4月12日

推しがいる生活というのは端的にいって良い。精神面が満ち足りている。「推す」とは、何かを純粋に好ましいと感じそれに敬意を払って応援し、他人にお勧めしたいとすら思うことであると理解している。そのように、「恋愛感情ではないが温かい気持ち」を外部に向けているのはとても健やかに感じる。わたしの推しは明らかに不摂生な見た目だが、それを心配するでなくむしろ面白いと思える時点で、応援するのにちょうどよい距離感なのだ。

しかし、ひとつ問題がある。推しに自分の存在を把握されたくないという気持ちだ。

*Update: Youtubeアクセス解析から補足されました。負けた。

透明な鑑賞者でいたい気持ち

わたしは今、推しについて語りたいという、これまで持ち得なかった痛切な衝動に駆られてこれを書いている。だけど戸惑いも感じる。その根源は、「推しにバレたら嫌だな」である。

推しのライブについての記事を推しの名前を出さずに書いてて、ツンデレだなあ私、と思ったけど何だろう…違う気がする。ツンデレとは「もうっ、あなたのためにクッキーを作ったんじゃないんだからね、余っただけなんだからっ」と口をとがらせてプイッとしたりする子のこと(?)で、推しのエゴサに引っかからないように注意深く、耽溺した感想を記述するこじらせ方のことではない。

そもそもバレる可能性が万が一あったとして、何が問題なんだろうか。わたしは推しを褒め称えようとしているので、むしろ感想が本人に届き、それがTwitterで広まったりしたら三方良しじゃないか、と理性は言う。だから、「推しに見つかったらどうしよう、無理」とか考えてしまう自分にいっそう戸惑っている。こんなに匿名性の高い状況で書いたものを読まれるのに抵抗がある理由は自分でもよく分からない。なにが無理なのか全く分からないのだけど、内心は「無理無理無理…」と叫んでいる。

例えばジャニーズファンの人が、「こっち向いて!」とか「ウインクして!」とか書いたウチワを持ってライブに参戦するのはとても不思議だ。ライブ会場の数万人の中の一人である自分をどうにか見つけてほしい、ってことでしょう?わたしはきっとその匿名性にこそ安心して、素直な感情を表出させながら相手のパフォーマンスを鑑賞することができるんだけどな。

誰かを推すということ

推すという気持ちを、この年になって初めて知覚した。アイドルやソシャゲにはあまり興味がないし、作品として好きな本はあれど作家に入れ込んだことはない。

推しがいるということは、わたしはファンなのだろうか。ファンとは何か。

実は30歳を前に、友人から宝塚やBLの薫陶を受けた(?)こともあるのだけどハマるところまでいかず、自分には無縁の感情と行為だと思っていたがそうでもなかった。オタクをやっている友人の推しカプの話を聞きかじることはあるけれど、自分が三次元の人間を推すことになったのにはびっくりしている。ただ、これはストレートなファン心だと言い切れない。

わたしの気持ちは「自分の存在を感知してほしくない。ライブは見たいが、できることなら透明人間か会場の壁か空気になりたい。早く大きな会場を借りられるようなスターダムにのし上がってわたしを匿名の森に埋めてくれ」というものだからだ。

推しなんてこれまでの人生でいたことがないので作法も気構えも果たしてそんなものが必要なのかも、全部よく分からない。

これまでの推し体験を強いてあげるならば、福山雅治氏の深夜ラジオは好きだった。あれくらいの規模の芸能人だとファン層の一人一人は相対的にとても小さな粒感だから、相手が自分のことを認識することもないし何を書いてもバレないしどうでもいいと思う。ただ私の今回の推しは、今から押しておけば軽率に”古参”になれるような、下手すれば軽率に一対一で話せてしまったりするような存在だ。それゆえ自分が何かをインターネットに書いたりした場合、存在を認識される可能性が高い。それに対して自動的に「ばれたら怖い、恥ずかしい。なにが無理かわからないけど無理。」という気持ちになるのだ。

わたしは今、

「推すって何?わからない。」

と、アヤナミレイ(仮称)みたいな気持ちでいる。(シン・エヴァンゲリオン劇場版は初日に観に行った勢です)

人に説明されてもわかり得ないものだろうけど、どうせならちゃんと味わってから死にたい。

恋愛感情抜きで、注意力を割いて行動を追い応援するってふつう家族くらいじゃないだろうか。我が家族はそういうピア・サポート関係にはなくて、付かず離れずお互い自分の見せたい部分以外があまり見えない距離感を保っているけれど。もしくは、ペットにむける愛情にも似たような効能がある気がする。

でも推しの場合は、作品に共感し応援したいと思う心もあって、そこには自分を惹きつける作品をつくることへの敬意が含まれていているはずだ。

(推しとはなにかを考えていた時に見たMV↓)

推しへの共感、自分の身に引き寄せて考えること、推し存在の効能

コント作品とそれを演じる推しの身体パフォーマンスへの称賛と経緯のほかにも、彼を推す要素がある。推しのコントに表出されているものや推しの生き方に共感し、自分を投影しているのだ。

推しは、自分で「要領がいい」というくらいに器用に学校生活になじみ、生徒会長をし、名門大学にストレート合格し、研究者になる道まで選べるところにあった。それなのに独自の運営で独自のスタイルを編み出す芸人を始めた。わたしは選べる選択肢が多い人がひとつの道を決意したときの、すさまじい迫力を目の当たりにした。

決意をするのに相当エネルギーを注いできたんじゃないかな、と想像する。深読みしすぎかもしれないけど、色んな人に “ちゃんとする” ことを期待されてきた人が自分の生き様のために格闘している様子に、深く励まされるのだ。

推しはよくライブで逸脱した日常を演じる。(あ、推しです⇩)

例えばこの作品だと、狂っているかふざけてみえるバンドの主人公は、いたって本気で活動している。

ライブでは何度も「ホンモノは強いよね」っておっしゃっていて、なんとなくわかるけどホンモノって実のところなんだろうと考えていた。決意を行動として純化した人のことだなんだろうな、あれ。一定数の人に「イイ意味で狂ってる」とか言われるやつ。

生まれ持ったホンモノと、体験と感情と思考を持って自主的にホンモノ化に方向を定めたひとがいるんじゃないかという仮説をわたしは持っている。
推しは、後者のホンモノなのだと思うのだけど、コントの中に出てくる登場人物は生来的なホンモノっぽい造形も多い。後付のホンモノも、元々ホンモノの気を持っていたところに意図的な環境移動があったというだけかも。

まあ何にせよ、その逸脱の肯定的な態度にとても勇気をもらえる。

認知されたくないという感情こそが歪んでいるんじゃないか説

わたしはなぜ推しに認知されたくないんだろうか。

ライブを見に行ったことはあるが、名乗ってもいないので個人的な関係性はないに等しい。推し-ファン関係、生産者-消費者関係、金銭授受関係である。こちらは提供されるコンテンツを繰り返し視聴することで親しみや共感を覚えはするが、相手にわたしが影響を与えることはない。

他人からの目線を気にしないで、ものごとを楽しみたい気質

まず、わたしはそもそもあまり他人に影響を与えたくない。こうやってブログを書いていて言うのも何だけれど。自分の存在をあまり重要視しないで欲しい。他人からの目線を気にしないで、些細なものごとを楽しみたい。気にしいだから、人間関係のある相手とのコミュニケーションではすり減らすものが大きい。そもそも印刷・録音・技術以前の人間に、一方向で完結するコミュニケーションなんてなかったはずなんだけどなぁ。それぞれが他者に身体を通じて語りかけることばを格闘しながら磨いていたはずなんだけどなぁ。現代社会のなかでわたしはすっかりそれを怠ってしまっている。

推し自身が作品に見えている

もう一つは、推しが自作自演の一人コントをする芸風だということがあるかもしれない。自分自身が、身体を通じてコントを観賞される “作品” でもあるのだ。だから、作品がいきなり喋り出したら、どう接していいかわからなくて挙動不審になるというわけ。「作品がしゃべった…! 」ってなる。あるいは舞台上にいたミッキーマウスが受付してたらびっくりして固まっちゃうじゃん、そう言う感じ。

一緒にライブを見に行った友人は、鑑賞者でありつつ、一人のビジネスオーナー的な感じで接していた。すごいことだと思った。まぁ、飲食業界の人だから飲み屋の店主-客関係で対等に会話をすることに慣れているというのも大きいとは思う。わたしはどうかというと、最近のシェアリングエコノミー、ギグエコノミーなんかで金銭授受がありつつもフランクな友人関係が成立する場面すら、なんだか消費者側になったときに居心地が悪い。(例えば、Airbnbでホストとゲストが友人として関係を構築する、とかね。)

推しの人格・性格のつかめなさ

あとは、推しの得体のしれなさもあるかもしれない。人間ひとりひとり、ゆらぐ身体と表象を持っていて当たり前で、確固とした自己やその表現なんてないのはわかっている。でもやっぱり不安だから、自分を安心させるためにありったけの予想をつけてその中で相手を判断しようとしている。推し芸人は、戦略なのかなんなのか、それが効かない。色んなものにも見えるし、でも何か一つの存在だと確信的なラベルをつけることができない。Twitterの一人称ですら「わたし」「僕」「俺」を違えて繰り出してくるんだよ、あの人。

わたしは直面する相手に対して、ふるまいや声色や使う言葉の幅といった、いわゆる “態度” を無意識に切り替えている。もちろん人間は他者があってこその存在なので、他者の存在を常に照らし合わせて自己を形成するんだとは思う。でも、相手の反応を過剰に気にして自分のふるまいを変えることはまた違う。

基本的に、割り切れないものを便宜的に反射的に編集するのが苦手だ。思わぬ形に表出してしまうくらいなら、と表出しないことを選んでしまう。でも結局 “何かをしない” ということも行為には変わりないのだから、相手はそこからわたしの意志のシグナルを読み取り「このひとは無愛想でぶっきらぼうにみえるし、怒ってるのかな、楽しくないのかな」と思われてしまう。そこまで自覚できるのに、じゃあいったいどうしたら折り合いがつくのかあんまりまだ判然としない。

そんなこんなで不安感が大きく、無意識に相手に合わせてお行儀よくしようとしてるんだろうな。(そしてそれが成功しているとは限らない。)だから人見知りが治らないし、人が多い場所が苦手だし、すぐ疲れるし、推しを前にして堂々と称賛と好感を表現できないんだ。

わたしが自分のことをデフォルトでキモイ人間だと思っている

最後に、「わたしというキモい人間に好かれるなんて嫌なんじゃないか」と思っているという理由も付け加えておきたい。どうせこれが大きいんだろうな…うん、わかってた。

人間関係での成功体験はすでにあるはずなのにいまだに上手く知覚できなくて、昔の孤立感を深めた記憶にひたってしまいがちだ。そんなこともあって、自分の容姿も思考も行動も、全部がなんかキモイと思いこんでいる自分がいる。こじらせた思春期の男子なんだろうか。わたしは認知が人とズレていることが多いのに、ついつい他人も同じような感覚に立っている前提で自分にたいする印象を予想し、自分の行動を規定してしまう。

その認識を変えようとおもって認知行動療法をやり、ベリーダンスと筋トレと発声トレーニングと、いろいろやってみているので、そのうち効果がでたらいいよな…。加えて、ここへの対処法でコスパがいいのは多分、「わたしはキモくない」と思い直す努力をするよりも、「みんな違ってみんなキモイ」という意識を持つことである。いつかこの部分についてもちゃんと書いてみたい。

ここまで書いてみて、推しの良さを推しの名前を堂々だしながらTwitterで語り尽くし、それを本人リツイートされたことを喜べたら、わたしの性格と認知改善は完了したと言えそうだな、と思った。

それをゴールにしておこうかな。