SNSで語り続けるのは未だにむずかしい

 

ここ数ヶ月関わっているアール・ブリュット(障害者アート)のプロジェクトがあって、その広報的役割として記事を書いたりインスタグラムにアップするコンテンツを制作している。自分から言い出したのだ、なぜならそれが周知に効率がいいから。その中で改めてSNSを使うのはとても難しいなと感じる。他人に見せたい部分をきれいに整えて出力するのは、コミュニケーションデザイン全般ということになるんだろうか、ソーシャルプロジェクトとして意義のあることをやっているとは思うのだけど、とてもエネルギーを消費するしごとだ。

SNSとの付き合いは大学1年生で始めたmixi以来だからもう10年以上になる。自分の本来の社交力では絶対に維持できない量の人間関係がいま自分の手元にあるのは間違いなくSNSのおかげだ。でも「発信力」をつけてナンボな世界がひろく目の前に横たわっているのを見ると、奥ゆかしさはもうオワコンかしら、デジタル時代にとって謙虚さとはなんなのだろうか、と考えることが多くなってきた。

人となりは、その人の言ったことじゃなくて行ったことだ、なんて言葉があるけれど、インターネットでは、行ったことを効果的に・継続的に言わないと伝わらない。そして自分の行ったことを逐一語るのってけっこうしんどい。他人の評価を受けるからしんどいという以前に、体裁よく語り続けることだけでもうしんどい。このブログはまだいい、誰に読ませるでもなく脳内を垂れ流しているだけだから。今時ブログそのものをフォローする人よりも検索流入が多いわけだし、私がもっと若い時に知っておきたかったことのようなどうしても伝えたいことは、その目的をしっかり伝える構成を考えることができる。まだ、華美でない文章でならそういうことができる。そう言う意味で、このブログはわたしの “母語” に近いんだろう。

他のSNSを見てみると、インスタグラムは写真と動画を主体として憧れを感じさせるようなコンテンツが多くて、最近はデザイナーやアーティストのポートフォリオとしても機能している。Twitterでは共感や笑い・豆知識がよく広まるし、政治的議論も活発だ。Facebookは知人同士の近況報告が多くて、年賀状や暑中見舞いの代わりになったんだなと思っている。最近ではClubhouseの隆盛からTwitterなどでの類似機能の追加があって、音声コミュニケーションが人気だ。それぞれ全部違って、全部面白い。わたしは人々が口々に発信する情報が流れ行くのを見ながら「みんな人前で話すの上手だなあ。」と眺めている。きっとインスタやツイッターでバズるのが得意な人は、プレゼンテーションの場で決まった持ち時間を使って効果的に自分の伝えたいことをアピールするのも上手だ。

現在日本国内におけるSNS利用者は7,975万人にものぼるらしい。自分対多数のコミュニケーションは、今まで長らくメディアか権力を持っているとか知識を持っているとかの一部の特権階級 のものだったけれど、それが誰にでも簡単にできるようになったのは素晴らしい。SNSを通じた自己発信はユーザーの人となりやライフスタイル・センスを追うようなスタイルだから、部分的なノンフィクションを自主制作していると呼んでもいいのかもしれない。でも結局SNSにはインターネット全体と同様、誰かが載せようと思ったものしか載っていない。それらは全て発信者が自分の主張をいかにプレゼンするかということにかかっている。意図せず映りこんだ事象や空気感から語られていないものを読み取ることはできるけど、それでも切り取られた映像・画像の反対側にあるものを鑑賞者は感知することができない。わたしは未だにそれに慣れることができない。鑑賞者としても、発信者としても。

物事を人前で語るのって、効率的に一部を伝えると同時に何かを切り捨てている。SNS上でうまく切り取られた「日常に見えるもの」で、相手を理解したとつい感じがちだ。それはわたしだけの癖ではないと思う。見せたいものも見えてしまうものも含めて一人の人間のはずなのに、写真技能とフィルターで綺麗に包装された相手を受け取って、しかもそれを自分と比べてしまう。SNSがしんどくなるってつまりそういうことじゃないのか。もちろん現実社会で人と対峙する時だって相手の性格とか役職とか場面によって自分の人格を使い分けるだろう。その中で自分の人格を細かく使い分けるのになんのてらいもない人もいるし、逆に誰に対しても同じように接することができる人もいるし、どれもできないで常にぎこちない人もいる。でも現実の身体を通じてコミュニケーションをするときは微妙な表情の揺らぎや声色や香りや触れ合いが、補完しあって意味を発する。きっとテキストメッセージに添える絵文字ってそういう身体性の代わりになるものなんだろうけど、自分の温度感に合うものがないからわたしはなかなか使いこなせない。多分自分で作れば良いんだろうけど、作るのもなかなか骨が折れるので後手後手に回ったままだ。

人間が見る世界は多面体なんだから1つもうまく割り切れない、それを惜しむ気持ちが長ったらしい文章を私に書かせるんだろうし、わたしはそれが楽しい。そんな文章を量産してご飯を食べられたら一番いいけど、でも現状無理なものは無理だ。読む人がほしい情報をうまく伝えていないコンテンツは、インターネットの海の中深く沈んでそこでじっとしている。

SNS全盛期において、にじみ出る人柄を主体的に覗き込むような姿勢はもう必要ないのだろうか。インターネット自体がまだ一般のものではなかったわたしの小学生時代ですら、クラスの前で話さなければならないときにうまく自分の内面を表せずに黙り込んでしまう人は勝手なあだ名をつけられたり、無関心に素通りされてしまっていた。それが通例として強化されたまま世界は過ぎゆくんだろうか。共感性が高い人、他人の思いをあれこれ想像し気にかける人、村社会では重要だと思われたそういう性分を持っている人のほうが現在生きづらそうに見える。他者への想像と共感に労力をかけない人のほうが楽しそうに見える。多分どっちがいいというわけでなくてバランスの問題だし、他者のことを気にせずとも危害を加えなければ好きにしていいのがSNSだと思う。でもSNSでは、うまく動けず口をつぐむ人に寄り添う方法が現実よりも少ない。現実では、わたし手の届く範囲が狭い。そんなわけで、ずっともやもやを感じてしまう。わたしは強欲で過干渉すぎるんだろうか。

年若い人もSNSでうけるコミュニケーション方法をどんどん習得していって、みんな声高に自分の思いや活動や作品を見て!見て!と公開している。意図しない嘲りをうまくかわす方法やストレスに耐えるマインドトレーニングが日々語られている。わたしは急流が向いていない人種だという自覚があるからそういう場所に出向くのは避けたいけれど、でも何かを発信したいと思った時に一番手軽で効果的なのがSNSだから使うしかしょうがない。それで疲れてついつい存在論なんかに思いを巡らせてしまっている。インスタグラムと、そこでうけるイメージ作りは向いてない、ほんとに。一人でごろごろしながら本の文字列に溺れて、それで生きていけたらいいのにな。

とても素敵な作品を作るのだけれど、口下手だからうまくアピールできずにそれで食っていくことができないクリエイターが周りに複数いる。自分の世界を持ってはいるけど自分事を他人の目の前で語り続けることが苦手な人は、今どこで生きていくのがいいんだろう? どこに生息しているのだろう?わたしにはまだわからない。検索してもグーグルは教えてくれない。

職人が黙々と質の良いものを作って工房の前に置いていたら通りがかった人が見つけてくれ、知り合い伝いに広めてくれる。村社会なら地理的にそれが楽だっただろう。いまでも一人遊びが得意な内向的な人間としてはそれが理想的なんだけど、なかなかこのご時世においてはむずかしい。現実世界でだって、人が通りがかって作品を見てくれる場所を手に入れるにはお金と要領がいる。

今のところ、インターネットで一番自分の気持ちを楽にする戦略はすべてをフィクションだと思いこむことだ。みんな事実をベースにした寓話、ステージ上で脚色したエンターテインメント。その時々の時代の空気感にフィットした様式というのは当たり前にあって、自分の自我が喜ぶ嗜好と時代に適切な様式を切り分けるのもフィクションだったらできるかもしれない。

というわけでこの愚痴投稿もフィクションだということにして、架空の筆を置く。