他人と比べるほうがマシなのだ

 

今週はメンタルがきびしい。雨続きのせいなのか、暑さのせいなのか、単にそういう周期なのか、棚上げされていることが多すぎるのか、はたまた人肌恋しいのか。皆目がつかない、全部なのかもしれない。

ハリーポッターで吸魂鬼ディメンターにやられた人を回復させるがごとく、チョコレートを自分の口にねじ込む。チョコレートは特効薬的に効く。ハリーポッターのあの表現は、J.K.ローリングの実体験なのかもしれない。

最近メンタルが落ちてるのは9月に行う写真展示について考えてるからである気もする。特に、自己表現するために自我と欲求を見つめないといけないことがしんどい。参考に読んでいるものをうまく咀嚼できなかったり、哲学や社会学の文献をちゃんと理解できないのも良くない燃料になっている。他人を分析させるととても的確な評価をできるのに、自分に対して相対的に見る尺度はすぐ失うから、「低能で容姿も人並みならず、気持ちいい性格もしていないで、なんで生きてるんだろう」などという思考にコンマ3秒で到る。そのゴールは建設されて久しいので、アクセスが簡便なんだろう。勘弁してほしい。そして、こういうのはきっと処方箋として猫が効く症状なのだろうけど、わたしはこともあろうことか猫アレルギーだ。

なんでここまで自己評価がひんまがったんだろうか。これは自己防衛的な心理機能だろうし原因は幼少期に遡るんだろう、客観的で冷淡なメタ認知部分のわたしは知っている。よく「他人と比べるな」とは言うけども、人と比べた方がよっぽどマシなときが多い。能力的には平均より高いものもあるのだ。でもそれが「自分を好きになる」契機になることはない。なぜなら自分は自分の高すぎる理想像を比較対象にしているのだし、だからこそ完璧主義的な理想を自責の材料にするとキリがないのだ。宇宙すら膨張を続けるといつか破裂するのに、わたしの不完全さへの不満とよりレベルの高い自分への渇望は肥大し続ける一方だ。

しかもそのコンプレックスの抱き方がめんどくさい。自然な日常コミュニケーションとか、信頼を勝ち得る愛嬌とか、技術をお金や地位に変える胆力と気力とか、そういうものはわたしには無い。でも、無いなりにしょうがないと受け入れている気がする。許せないのは特に容姿と振る舞いの「キモさ」だ。誰かにキモいと直近言われたかというと、全くそんなことはない。これは全て内面から滲み出てくる自己嫌悪によって視界に覆いかぶさったフィルターである。

自分を相対的に、客観的に、見ようとしてみる。学歴は平均よりは上、大きな健康上の支障も借金も世話をすべき人間もいない。周りの人にはとても恵まれている。完璧とは言えないものの「まぁまぁ備わっている」ように見える人生だ。もちろん上を目指すとき、見上げるとめまいがするようにひしめき合った競合が存在する。もっと頭がよかったら、と思うことも多い。ただそれがむやみやたらに自分を傷つけることはもうない。人には向き不向きがあるのだし、素敵に見えていた役職やステータスは、自分にあっている働き方を伴うものではなかった。そこに向かって苦しい努力をするよりも、自分の視点を活かしたほうが自分が楽しい。そこまでは納得することができた。ただ「もっと美しく生まれていたらなあ」という羨望は今でもけっこう痛みを伴う。正直見た目は平均(なんてものがあるかわからないけど)をみて中の下か下の中かそこらで、よくも悪くも目立ちはしない。せっかく競争にさらされる場所を避けるように密やかに、ニッチな需要に股をかけて生き延びてきたのに、結局自分とは遠いところでスポットライトを浴びているものを評価対象として、自分を責め続けている。

わたしはきっと人よりも美しいものや洗練されたものに対してこだわりを持ち、そして憧れが強い。恍惚とするほどに美しいものが好きだし、圧倒されるくらいに出来の良いものが好きだ。だから自分が、自分の好きなものになれないのがとても苦しいんだと思う。無闇に高い視覚の解像度を持つのも困り物だ。世の中の「ふつう」の人たちはどうやって自分を肯定しているんだろう、「自分を好き」と言える理屈がわからない。嫌う理由がないから好きと解釈しているのか?そもそもそんなことあまり考えないんだろうか、考えなくてすんでいるんだろうか。

幼少期の体験が自分の性格の陰鬱さに影を落としているのは間違いないけれど、きちんと事実を見つめるとわたしは容姿を主たる理由にしていじめられたことは特にない。親との関係で感情のケアがうまくなされずメンタルをこじらせたというのも、容姿とは関係ない。それよりも当時のわたしときたら「虫とってきてら、キモ!」だとか「堤防の草の絵に紫が入ってる、変なの!」とか、今思うと完全にやっかみというか退屈な田舎の小学生の暇つぶしのからかいに対してむやみやたらと傷ついていた。または、クラスカースト上位の女子が気に入ったわたしの友人とわたしを引き離すために、わたしの悪口を広めて友人だけを自分のサークルに取り込もうとする画策に正面からはまったりしていたのだ。リテラシーが低いせいで好奇心や創作物を理解できなくておかわいそうに、品性と治安の足りない場所から抜け出せて最高だね、と自分に言い聞かせて解体完了なコンプレックスだとは思う。これらは自分を足踏みさせる言い訳として無意識に利用しているから、自分の拗らせ原因として強化し今に至るまで浮き立たせてしまっただけなんだろう。そこまで思考は至っているのに、どうしてこうも陰険さから抜け出せないのか…。

いま自分を笑い飛ばす人なんてだれも周りにいない。そもそもわたしをキモいと思う人間なんて周りに置いておきたくないのでさっさと消えてくれたらこちらも楽である。それなのに、未だに無闇に周りを気にしたり、杞憂することに疲れている。自動でそういう気持ちになるのだ、止め方がわからない。今日も友人と小さな喫茶店に行くことがあったのだけど、「ああ一人で合わないことを喋りすぎてしまったかな」とか、「店主はこんな話聞きたくないのに愛想で笑っているのかな」とかずっと想像して、とても疲れた。魔法みたいに人を明るく浮き立った気持ちにさせるコミュニケーションをする人は確かにいるが、この思い通りにならない身体と堅苦しい語彙の毛色を自覚した上で、同じところを目指すのは無謀すぎやしないか。

ここでのキーワードはきっと “受容” だ。決して “肯定” ではない。(そもそもself affirmation を自己肯定と訳したときに語弊が生まれている気がする。)肯定はムリだ。自分が自分の好みでないのだから。自分の好みだと思うものは確かに世の中に存在し、それと自分を比較したら絶対的な相違に何度でも打ちのめされる。容姿という、意図せずランダムにつくられた部分は特に。覆い隠し描き直すことはできるけれど、結局自分は毎日素材部分を突きつけられるわけで、自分への取り繕いにはならない。

自分を肯定することあるいは許容することはできないかもしれないけれど、ニュートラルに受容するのは必須だと思う。それがあって初めて現実的な努力の目当てが生まれるはずだから。そういう意味ではアメリカなどの「自分が自分であるだけで大げさに褒められる」家庭教育の傾向なんかはいいものなんだろうな。良いところは当たり前と流し、足りないところをとりわけ指摘する家庭で育つと自分自身への態度がそれに固定されていつまでも自分で自分を束縛する。

だからといって、「75の自分を愛する肯定のことば」みたいな画像に行き当たるとゲロを吐きそうになるので、ほかの方法を考えたい。歳をとって同世代の男性はみんな禿げて肥え、女性もクーパー靭帯は切れお尻も四角くしぼんだころに、やっとほっとできるのかもしれないが、それまでは待てない。わたしは性格が悪い前にせっかちなんだよ。