100記事近く書いてみると、さすがにできることが増えた気がする

 

ごろびよでは、現在これを含めて95記事が公開されている。けっこう内容が溜まってきたところで今までのことを振り返ってみよう。100記事に到達してからこういうことを書いた方がいいのだと思うけれど、深夜に寝られずモヤモヤするなかで思い立ったので、その場でバーっと書き出してみる。ブログを初めて10ヶ月がすぎ、だいたい月に10本を目標に記事を投稿することによって出来るようになってきたことについてだ。

ブログは、完全に思いつきで始めた。コロナ禍でまとまった時間ができて、やってみようと思いつつ手をつけられていなかったことを始めようと、友人とオンラインコワーキングを始めたことがきっかけだった。ありがたいことに、wordpressの導入まで手伝ってくれるひとが横にいたから後回しにせずにすぐに3年分のサーバー代をカード払いし、勢いでブログを立ち上げることができた。わたし一人だったら、またどこのブログサービスを使うだとか何を書くだとかそういうことすら決められずに、結局「面倒くさい…」とかいって後回しにしていたんだろう。あまり深く考えずにノリで始めたしまったほうがうまくいくことは多いものだ。(そういえば、全く同じことを別の友人が言っていた…結婚のことだ。)

2020年の9月に、月10本を “努力” と感じず書けるようになる、を目標にして取り掛かった。ここに至るまで様々な変遷があった。見返すと絵柄も語り口も体裁も、全部違ってきている。そして自分の内面や技術にも変化があった。

1. 「読みやすかろう」とウェブマガジン調を目指す→面倒になる→人目を気にせずやりたい放題

まず、何より肩の力が抜けた。なんというか、素の自分と、自分の “母語” をダダ漏れにすることに戸惑いがなくなってきている。ブログの声調というのか声色というのか、そういうものは最初にくらべてだいぶんと変わった。これは、怖く無くなってきたというよりはむしろ、書き続けるなかで「かしこまるのメンドクサイ」という気持ちが大きくなってきたためだ。ちなみに “母語”と表しているのは、ウェブマガジンの記事やリビング誌っぽい日本語は決してわたしが自主的に使う日本語ではなく、むしろ近代小説あたりの語調でのテキストコミュニケーションに走りがちで、そういう文芸日本語がわたしの母語だと思っている節があるからだ。小学生の頃から、「使う日本語が古い」と言われていたし、新卒でメールしかしたことがなかった人と顔合わせをしたら「え!40代くらいかと思っていました,,,お若かったんですね」と言われた。ちなみに年上に見える印象を与えられることは経験豊富にも見えるということだから、フリーランスとしては好都合で、これに味をしめたわたしは嘘を言わない範囲の年齢詐称を繰り返した。(20代としか言わないでおくと、向こうが勝手に20代後半だと勘違いしてくれることが多かった。)

でもやっぱりそれが人と違うという意識があって、なるべく人の求める喋り方を心がけてきたつもりだ。だから誰に読ませるでもない自分のブログを立ち上げたときにも、どう言う口調でどういう記事を書いたらいいのだ、とぐるぐる考えてしまっていたのだ。だから最初の方はよくあるウェブ記事の体裁みたいにしていたし、ですます調で書いていた。そこまで考えるなら初めから読者像の設定なんかしたらいいんだけど…。そういうウェブマーケティングの範疇のことは面倒で、未だになにも手をつけられていない。自分のために何かを達成するとかそのための効率化を徹底するのが本当に苦手だ。

しかしまぁ、月に10本だすぞ、と構えてそこに重点を置いていると、だんだん体裁を考えながら書くのがしんどくなってきた。書きたいことはどんどん湧いてくる。それを受け止めるには、自分の目に入らない読者の心地よさを杞憂して試行錯誤するよりも、書きたいことを書きたい文調でどんどん出す方が気持ちいいなと思った。それからは「あ、これ書きたい」と思ったら、「誰に需要があるんだ」とか「変だと思われないだろうか」とか考えずに、いい意味で短絡的になることができるようになってきた。わたしは何事も考えすぎて手をつけられないたちだから、これは大きな進歩と言っていい。

2. 事実の羅列だけでなくて自分の感情や意見や視点を書き表せるように

そして、書きたいことといっても事実の羅列だけでなくてちゃんと自分の思っていることを書き表せるようになったのが結構嬉しい。実はこれがあまりできていなかった。正直論文に苦労するのは、自分の意見をはっきり言うのが苦手だからだと思う。自分なりに一貫した切り口をみつけ、そこにしがみついて一つの論を練り上げることができないのだ。それに、いつも誰かの求めているだろう “正解” を探していたし、将来の自分を含めた他人に本心を知られるのはどうにも恥ずかしくて、自分の気持ちを言葉にして外に出す訓練ができていなかった。それゆえこれまで日記すらつけらてたためしがない。

しかし今は、あまり深く考えずに陰鬱で陰険なことも開き直って書き流すことができていて、とてもメンタル面のリフレッシュ効果がある。自分の現時点での視点が残るのもいい。このブログは自分の場所だという思いが強いし、「どうせ誰も読んでいないでしょ」という気持ちで書いている。まぁ、実際少しの検索流入以外にほとんど読み手はいない。多分ブログ立ち上げを手伝ってくれた友人が、気が向いた時に読んでいる(なにか発見はありましたか?)。

それが楽なのだ。誰の目を気にするでもなく、何かはっきりした目的や目標があるわけでもないから、好きなことを言っていられる。ずっと他人の目を気にして、よりまともな人間になるように努力したり、「暇があるならアレしなきゃ」と自分自身を急き立てる生き方をしていたから、そうやって休め体勢のままぶらぶら遊んでいられる場所はなかった。だからここ1年は気の赴くままの遊びを大事にしていて、ブログはその実験の中枢を担っている。もちろんブログだけでなく複合的な効果としてだけど、多分一生通じて必要なことであろう感情と意見を外に出せるようになったのはとてもよかった。

3. アイキャッチで色彩感覚と構図が向上、描けるもののバラエティも少し増えた

アイキャッチ一枚一枚にはそんなに時間を費やしていない。時間をかけなきゃという強迫観念に囚われるとそもそも続けることができなくなると思ったから意識的に簡略化した制作をしている。しかし適当なアイキャッチでも60枚以上書いたら、それなりに絵を描く能力が向上した気がする。この記事のアイキャッチに「とくにイミのないらくがき」という文字をいれたが、特に意味のないものを完成させることができたということ自体のもつ意味は、実は自分にとってかなり大きい。

もともと絵は好きで、落書きや手紙に挿絵を描く程度はよくしていた。スケッチなんかは好きだから線画はちょっとばかし描けた。でもそもそも線画に色を塗り、完成させられた事はほとんどない。

アイキャッチを自分で描くと決めてやっていたら、まず線をひくのが安定してきた。そしてわかった、わたしの絵が雑に見える理由。線を書くのが早すぎる。ゆっくりひいた線とサッサっと引いた線では全然出る表現が違う。自分の絵を見るたびに、なんか下手だなあ、とずっと思っていたけれど、線の引き方にまったく意識が行っていなかったらしい。もっと早く気づきたかった。

それに、色塗りをしなければならなかったのがよかった。これまで絵を完成させられなかった大きな理由は、色塗りに取り組めないことだった。そもそも色塗りが下手だと言う意識があって、色の組み合わせを間違うのを恐れて試し塗りもできず、悩んだ挙句しんどくなって放り出してしまう。おかげで感情を反映する雰囲気を醸し出しているのに下絵で終わった落書きがたくさんある。やっぱり今見返すとまだまだアイキャッチ画像も下手だけれど、それでもちょっとは色使いが上達してきたんじゃないかと思えるようになった。これとこれは気持ちいい、これは合わないと試行錯誤の中で体感できたからだろう。こういう、自分のいたらなさを突きつけられるようなトライアルは、授業の中で強制的にやらされるとかでないと私には取り組めなかったことなので、アイキャッチをかかねばならないと言うのは良い状況設定だった。

あとは、複雑なことはできないけれども、ある程度デジタルソフトを使う方法がわかってきたのかなと思う。3ヶ月前まではFireAlpacaというフリーソフトを使っていた。でも持っていたwacom板タブレットを手放してしまったのでいまはスマホのアイビスペイントにスタイラスペンで描いている。目が痛くならないようにするのに必死だけど…iPadがほしい。

最後に、人物以外のオブジェや風景を少しだけかけるようになった。正面や真横の人の顔はよく描いていたから手癖でそれなりにわたし好みの可愛さがだせる。でもなんらかのシチュエーションの全体像を落書きですることはなかったため、最初は広すぎるアイキャッチのキャンバスに何を描いていいかわからず困惑していた。おかげで、なんとなくきれいだなぁと顔ばかりじゃなくて、ちゃんとテーマを決めて、使うモチーフを決めて…という “計画” の段階を取り入れることを学んだ。大まかでもいいから描き始めるまえに計画をする、なんて楽に進めるんだろう、そりゃみんな計画から始めるよね〜。

4. フィクションを書き始めた

曲がりなりにもフィクションをかけるようになってきた。というか、書きたいけれどフィクションに仕立てなければどうにもならないことが溢れてきてしょうがなかったので手をつけたというのが正しい。でも書いてみると楽しい。わたしは小説を読むのがとても好きで、だからこそ「自分なんかが取り組んだところで素晴らしい作品と比較して凹むだけだ」とおもって敬遠してきたけれど、なんというか予想外にすっきりする。好き放題してもだれも文句言わないでしょ、という大船に乗った気持ちで書き殴ることができるのだ、だって全部ウソの世界だから。フィクション形式を綴るようになってから、小説を読むときにも会話表現だとか状況描写だとか、書き手の技巧に自然と眼を配るようになってきた。一つ視点が増えて、また読書体験が一段と楽しい。

5. 「とりあえず手をつけ、完成させてみる」が出来るようになる

そして上の4点を通じて「とりあえずやってみたら、だんだん上手くなっていくものだ」という感覚を得られたのが精神にとてもいい。(そもそもSEO用記述も広告設定もしていないので)記事がバズったわけでも広告収入が入ったわけでもないが、これは “成功体験” とよんでいい。「とりあえず手をつけてから足りない部分を上手くなっていこう」をブログを通してできたわけだから、この思考フローは日常生活や他のプロジェクトにも横滑りさせることもできるだろう。私は歴史から学べない愚者なので、無理やり経験をできる状況をつくってやっていくしかない。ブログは、案外適した場所だったようだ。

そういえば、「料理だったらマルチタスクやスケジュール管理ができるんだから、仕事でも同じことをしたらいいんだよ」と自分に言い聞かせたら出来るようになってきたことをいま思い出した。これ、一本書きたいとおもっていたんだった。後で覚えていたら書こう…こうやって増えた下書きが現在で160件たまったままだ。160件途中で投げ出したものが溜まっているって、ブロガーにとっては普通なんだろうか。

今後すべきは、文章力とウェブマーケティングか?(めんどくさい)


ちなみに文章力はあまり上がったとは思わない。もとから適当な長い文章を書くのは苦痛ではないし(論文は全然かけないけど…)「漢字をひらく」とかトーンマナーの統一とか、はたまたカギカッコなどの使い分けをゆるくしか意識していない。せっかくだからもうちょっと頑張ってもいいのかな、と思う。読みやすく、惹きつけられる文章が書けるに越したことはない。

あとは、検索流入を意識したタイトルと構成を考えるべきなのかもしれない。実はむかしほんの少しだけwebライターをしたことがあるが「***さんが見つけた●●になる方法10選」みたいなタイトルが退屈で、イヤになって続かなかった。ただ、誰かが必要としている情報を教えてあげられたらもちろん嬉しい。自分の失敗談や悩んだ経験から誰かの人生がちょっと楽になればとてもいいなと思うので、自分のための100記事を達成したら、そこから先は何か役立つことも意識的に書けると良いかもしれない。今ビュー数がある記事はユニーク検索でクリックされたもので、何に需要があるのかが見えて面白かった。(推しの記事は推しがリンクを貼ってしまったからだけど…なんでそんなことするんや、ばれたくないって書いたのに)。多分当たり前にウェブマーケの教科書にも書いてあるけど、手当たり次第書いてみた中でそういう偶然の学びがあるのが好きだ。まだ時間に余裕があるので、もうちょっといろんな方面の探索としてブログを遊び尽くしたい。