努力をした時に追い風を感じられる場所に立つ

 

わたしは怠惰を自覚している。

努力や勤労を美徳とする考えのなかで育ったはずなのに、いつしか快楽主義者になっていた。自分基準の『むやみに無理するもんじゃない』を突きつめたら、客観的にみてダラダラし、遊び呆けている人間になった。もう “努力” ができない。

そりゃ生きていくに足りるくらいの労働はするけれど、しんどい思いをするなら貧乏で楽しく暮らそう、日本ならそれができる、という態度をとっている。『もっと上へ!もっとひたむきに!』という気持ちはいつしか消え失せていた。昔は社会に求められることを頑張る、これ人生なり、って感じだったのに。社会からはみ出さないギリギリの周縁の流れの緩いところで、中心部の渦を眺めている。多くの人は、わたしの生き様を見て「甘えている」と表すだろう。

 

そういう態度に変質した契機はいつだったんだっけかと考えると、どうやら希望した大学に入れず、でも浪人するのはイヤだからと進学した学部を楽しめなかったことにあるようだ。

与えられた環境での一番をめざして最大限に頑張るという選択肢もあったはずだけれど、努力の先にかならず明光が見えるとは限らないんだ、とその時悟ったのだと思う。

ちなみに大学が面白くなかったのは大学のせいではなく、考えなしだったわたしがろくに調べもせず塾の担任氏に言うことを鵜呑みにして自分の興味からずれているところに入ってしまったからの一点でしかないことは言い添えておく。

受験に失敗したのは数学ができなかったからだ。3、4歳の頃から公文式をやっていたけれど、それでも結局数学の美しさを解るどころか、やっとセンター試験をクリアできるくらいで応用問題を解く発想の柔軟さは身につかなかった。そして数学を勉強しつづけるのをとても苦痛に感じていた。なにかモノをみたときの視覚的な美しさはとてもよくわかる。でも世界の中からパターンを読み取ることも抽象的思考も論理体系も苦手なのだ、1日数時間集中できればいい方だった。しんどいことからは人間逃げようとして、大いにサボってしまう。だからかけている時間も結局少ないし、そして精神もすりへらす。だから第一希望の理系大学に落ちたときに思った。「数学を用いる分野は、どれだけ頑張っても結局伸び悩んで同じスタートにいる人に遅れを取る。これはもう、頑張ればなんとかなる問題じゃない。」

それまでのわたしは、同級生にできることは、めちゃくちゃ努力したら自分にもできるようになるもんだと思い込んでいた。苦手な体育や人間関係でさえも。だからめちゃめちゃ努力したし、できない自分を努力できてない、と責めた。

ちょうど塾からの薦めもあって、数学とは対象的にあまり努力している感覚がなくても点数が伸びる言語分野を大学の専攻にした。でも結局わたしは言語を学ぶことは好きでも言語を研究することは全然好きではなかった。保育所のころから組織で疎外感を感じていたのは大学に入ってからも変わらず、クラスやゼミにいまいち馴染めない。大手企業のインターンに行ってみたりもしたけど結局全然そこで重要視されていることを自分ごととして腑に落ちさせることができない。そして肝心の論文も全然まとまらない。勉強不足なのかな、と当時は思っていたし、20代半には修士まで行ったけど、しんどすぎて体を壊しかけた。

小学生のころの夢には “けんきゅうしゃ”と書いていたし、そうでなくても漠然とバリバリ勉強してバリバリ働くんだ、とずっと思っていた。祖父母なんかは「お勉強が良くできていて偉いねえ、末はお医者か外交官か」なんて言っていた。それを聞いた自分は、「みんながそう言うなら、そういうもんなのかな」と思っていた。

でも、どれもしっくりこなかったし、うまくできなかった。

結果的につもりつもって、「無理、やめた。わたしは尻をまくる。」とキレた瞬間がきた。それからだ、どんどん楽になってきたし生きるのが楽しいと思うようになったのは。一時はほんとうにお金がなくて家すら失うかと思ったけれど助けてくれる人に出会い、苦にならない暮らしかたと仕事をするといいと学び、一方で出来ることに没頭していたらその分野でわたしを必要としている人に行き当たって、それが仕事にもなってきた。

「なんだ、もっと早くにこうしてれば良かったんじゃん」と思っている。

ただわたしの場合、ある程度学校の勉強はできたから、途中まではうまく行っているように思えていたのだ。自分に向いていない道でも努力したらなんとかなる、と信じていただけに、必要以上に強く壁にぶつかって折れかけ、そこでやっと体調にあった暮らしかたと仕事の適正が大事なのだと気づけた。

楽しそうに生きている変な大人、そういえば大学時代にも見かけていたんだよな、実は。誰かが良いと思っている方向を教えてもらって、それに向かって邁進していた時は目に入っていなかったけど。

 

それに加えて、写真家の知り合いの展示に行ったことでも考え方ががらりと変わった。その人は写真家としては生計を立てていなくて、地方で季節の農産物生産をしながら写真を撮りつづけ、そして定期的に展示をしていた。

展示はとても良かった。100号を越える大きさの雄大な自然。写真家の住む地域のひとの穏やかで真剣なまなざし。ひとつひとつ目の前にあるものごとに向き合う視点を感じた。

帰り際、在廊していたその知人の写真家に挨拶した若いわたしは、要約すると「写真家として成功するのももうすぐですね」というようなことを言った。応援の気持ちだったのだと思う。

すると、すこし間を置いて、その同年代の写真家は答えてくれた。「うーん。成功ってなんなのかな。自分はこれで満足してるんだけど。それで食っていくことだけが成功じゃないでしょう?」と。

かなり目が覚めた思いがした。成功という言葉で描くイメージが、有名・一流・金持ち・安定・大規模、で凝り固まっていた。

 

今になってみると、力を抜いて流された先に、あるいは没頭の先に、自分に適正があることが待ち受けているのがわかる。すくなくとも、努力をした時に追い風を感じられる場所に立つのが大事なのだと思う。たとえその場所にはっきりした職やトレンドの名前がついていなくても、風に押された先で、靄が途切れるときがきっと来る。

わたしの場合、無理して数学を頑張っても行きたい大学にはいけなかったし、ギリギリ受かっていたとしても、中で待ち受けていた坂を上りきれなかっただろう。無理してインターンや就活をしても同級生が向かった先の東証上場企業総合職には受からなかったし、受かっても中で打ちのめされていただろう。人が得意なことを自分が得意でなかった場合、無理してそれを追いかけても、それを得意とする人の速さでは進めない。自分にとっての追い風がどこにあるかを考えた方が人生のコスパがいい。

 

 

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余談だけど、アイキャッチは試しに流行りのスタイルのトレースにしてみた。絵自体をトレースしたのではなく、様式をトレースしてみたらどうなるかなと思ったら、意外といけた。最近模写が楽しい、模写から学べることは多い。

ブログができてから、アイキャッチが落書きが行き着く先となった。ゴミ箱行きにならずに済むというだけで、特に目的のないお絵かきをする気が湧くのがとてもいい。