どうして主役が一番優れていることになるんだろう


今日人としゃべっていて知ったのだけど、学校の文化祭の劇で、一人の主役を立てたストーリーを扱わなくなってきているらしい。

みんなすこしずつ出番がある群像劇をする、あるいは童話を改変してお姫さまが6人いるように仕立て上げる、そういう風潮になってきているということみたいだ。それって『多様性を大事にしようよ、ひとりひとりの個性を大事にしようよ』っていってるのと逆行していないかい?みんな違ってみんないい、ってそういうことじゃないだろ?と思った。

主役を立てた劇をすることと、誰か一人だけを取り立てて礼賛しその他を貶めることはイコールではない。主役は、他と同様にひとつの “役割” だ。でも主役と脇役がある劇が避けられる背景にあるのは、主役が優れていてその他が劣っていると言う考え方が人々の中に埋め込まれているということなんじゃないか。そして、それってもっと認識されたほうがいい。

わたし自身は、主役なんて頼まれたって絶対したくない。他人の注目が自分に向かっているのが嫌だし、そもそも長いセリフを覚えられないし。それよりも大道具がしたいし衣装係がしたい。そして本番は裾でのんびり観劇していたい。どうしても全員出演しなければならないなら、”村人C” として大勢で逃げ惑いたい。

結局すべて比較優位性で決まる役割でしかなくて、主役のそのひとつだとわたしは思っている。そしてそれはわたしには向いていない、だからやらない。その決断を主体的に選び取ることができる。

主役のいない台本をやりたい、と子供たちが主体的に要望を挙げたわけではないんだろうな、けっきょく管理者側の “多様性” とその推進に対する理解がなんかお門違いなんだろう。自分の経験を鑑みると、主役をやりたい子なんてクラスに数人しかいなかったはずだ。管理者側が「それは多様な子供たちの一部だけを褒めることになるから」という理由で取りやめるとしたら、本質が見えていないのではないのかなと思う。

のぞむキャリアに適した技能や欲求がバッティングしたらそこに競争が生まれる。そこに果敢に挑戦していけるメンタルの持ち主はその土俵で戦っていけばいい。そうではない場合、競争を避け、自分の苦にならないところにある余白を埋めるほうが自分が楽しい場合が多い。

甘んじるのが良くないんであって、適性を自覚し、向いている脇役を目指してスポットを取りに行くのはむしろいいことだ。それを弱腰だと思う必要はないはずなのに、見栄や他人からの承認が自分の身体と精神の心地よさに先んじて重要視されるから、気づかないうちに苦しくなったりする。

エヴァンゲリオン初号機はシンジくんしか乗れないから「逃げちゃダメだ」が通用したけど、現実において自分がどうしても折れそうな時にも逃げてはいけない場所は希少だ。でもそれはなかなか見えるものではないんだろう。(逃げる選択肢を多くの人に見せるような仕事をいつかしたいな。)

会社などの組織でも構造は同じに見える。上級役職の人の給与が高いのは責任と役職に必要な技能習得までの蓄積と希少性なんじゃないの。偉いから、ではない。そもそもわたしは “偉い” という日本語が嫌いだ。偉いは優秀さも人格の崇高さも決断力の高さも何も伝えない言葉だと思う。それらが付随しない権力性の空虚さを感じる。

なにはともあれ、船頭多くして船は沈む。バイプレイヤーに適正がある人は絶対いるし、分業ってそもそもそうやって成り立ってきたはずだし、お金ってそもそも持てる技能や資源が違う人間同士で世界を成り立たせる架け橋だ。意思決定が得意な人はその役割を、伝達が得意な人はその役割を、食糧供給が得意な人はその役割を、どれを自分で選んでも自分が損せず痛めつけられず食いっぱぐれない、そういう世界が多様性のある良い世界だとわたしは思っている。そこに気づけるリテラシーを磨くとより自分が楽しく味わい深い人生を味わえる気がする。「自分の人生の主役は自分」って言葉の言わんとしていることって、そこでしょう?

しかし、なんで日本の学校ってちょっとずれたことするんだろうな。本質を見ないようにしているのは誰なのか。施政者が、目指したい教育を現場に委ねきれないから、表面をさらったマニュアルを浸透させるのにやっきになる、ってことなんだろうか。こういうのって統計情報を見ても全然答えがみえないから難しい。