外部接続は、思い通りにならない身体に載って

 

身体が邪魔だ。言葉にしてみるとこうだろう、わたしがずっと感じているいらだちは。

朝は苦痛だから嫌いだ、朝なんて永遠に来なかったらいいのに。朝の景色は綺麗だから好きだ。でも、目覚めが良かった朝なんてものはない。偶然持ち合わせた身体がおっくうなタイプのものだからだ。

毎日起きた瞬間から身体がだるい。布団を足で傍によけ、なんとかずるずるとマットの上で身体を起こし、ヨガのバナナのポーズや猫のポーズをとる。頭蓋骨と首の付け根がミシミシと音を立てる。その次には脇腹に急なつっぱりを感じた。どうしてこんなところが凝るんだろう。昨日もわざわざ歩きに出たし、健やかで素直な身体を持った人の教えに従って1日過ごしていたのに。

「丹田に力をこめるんだよ!肩甲骨ももっと近づけて。ほら、シャキッとするでしょ。」

 

お茶を入れにシェアハウスのキッチンに行くと、同居人も居合わせた。「おはようございます。」紅茶とレモンケーキを準備しながら、彼女は微笑む。左の手もとのスマホでは、ソシャゲが自動モードで進行している。今日も、きちんと亜麻色のショートカットヘアにアイロンを当て、すんなりした首が綺麗に見えるカットのワンピースを着ている。彼女は、午前中の光のなかでとても美しかった。在宅ワークでも、この人は装いを忘れない。

肉体がこれくらい綺麗なつくりをしていたら、装いは楽しいものだったんだろうか、あるいは必要不可欠な武具なのか。紅茶とレモンケーキの彼女は、女性であるわたしもつい目をやってしまうような綺麗な輪郭の乳房をしていて、それがほっそりとしたウエストの上にのっている。服の上からでもわかるスタイルの良さは、行き交う数々の人間の視線を吸い付けるだろう。

「人はひとりひとり違っている、持っているものに感謝すべきだ」という道徳講話を朝の回らない頭に流しながら、ビタミン・鉄・亜鉛のサプリを一つずつのどに流し込む。

嗜好も違うんだよ、わたしの身体はわたしの好みではないんだ。

「自分を愛してあげないで、誰が愛してくれるというの?」

やめてよ、愛の対象と行為を考え出したらその瞬間に消えたくなるから考えないようにしているんだ。

 

わたしの身体は五体満足でぎこちなくて不細工だ。ちょっと我慢すれば動きはする。でも姿勢が “悪い” ので、整体でおすすめされた反り腰を “治す” ストレッチと首の位置を “正しく戻す” ストレッチ動画を見るようにしている。

「日々の意識で身体は変わっていきます。素敵な自分を目指して、一緒に頑張りましょう!」

正しいボディイメージなんて生来持ってないし、意識の維持方法も知らないし、未来に希望を持つ姿勢も誰も教えてくれなかった。

絶望感のようなものが込み上げてきて涙が出てきた。ハッとして腕に爪を立て、現実を感じる。毎日決まった分数、同じ行動を繰り返し身体に負荷をかけ、日頃使わない筋肉を刺激する。未来の目標を見据えて日々努力をかかさないこと、それがはつらつとした身体をつくる。そういうことは、しんどい。もっというと、自己の内実が痛い。その痛みに効くのは身体に備え付けられた痛覚への刺激だ。

顔の見えない群集から湧き出てきた価値観にさらされて、疲れてるんだろうな。どれだけ注意深く避けて日常生活を編んでいても、仕事の場にはどうしても忍び込んでくるわかりやすい言説。対応方法も、もうよく知っているというのに。

「こいつ奥さん綺麗なんだよ。」

「何歳差だっけ?」

「あ、そうなんだ、そういえば何歳?」

「えっ、歳下なんですか?」

「おい、失礼だろ。」

「え〜、だって落ち着いていらっしゃるから〜。」

人間工学に基づいた椅子を作る前に、人間工学に基づいた社会仕様にしてほしい。わたしが人間工学的に適切でないつくりをしているなら、どうか早めに誰か、適切な修復を加えてほしかった。軽やかに陽光の反射が映り込む瞳と自然と上がった口角、色素が薄くうねりが少ない毛髪。問題解決思考と成長欲求。高負荷のジム運動を続ける気力と体力、その結果得られる引き締まった肉体。それらがより安定した社会的地位を得るためのトリガーである世界線において、そのラインを越えられないものは大変わかりやすく弾かれ評価軸の視界から外れる。直接嘲笑されなくたって、一緒に歩いている友人だけが、彼女が気付いたら持っていたもので褒めそやされ迎え入れられ、自分の横からはいなくなる世界に生きてきた。

大量の人間を一箇所に押し込めて、一方向に向かって座らせて、それに何の意味があるのかの前提を説明することもなく知識を詰め込んでいくのは人間工学的ではない。それに耐えてなお、どこかの大人やメディアによって構築された善悪や美醜や是非を身に付けた、声の大きな子供たちが序列をつくる社会からわたしたちは逃れられない。頑強な足の裏と遠くばかり見つめる目では自分が今現在踏みつけているものに気付くこともできないが、自分の気付かなさに傷つくこともないという、そういうつくりの人間もいる。人を殴る拳の痛みを、殴られるみぞおちの痛みを、感じる程度は人それぞれだ。

身体もだけど、思い通りにもならない意識にもそろそろへきえきしてきた。しんどいことばっかり拡大して聞き取って止む兆候を見せないんだから。身体も精神もだるいし弱いし自分の思い通りにならないし他人の評価軸の中で好意的に位置付けられるわけでもないので、邪魔なばかりだと思う。

そして身体に対する鬱屈としたコンプレックスを抱えた人間は、いつしか自分の羞恥心と不安に喰われ、そういう人間らしい社会的役割を演じる。

だからなのか、そもそも人体の作りって変だと思ってしまう。歯並びにしろ肩こりにしろぎっくり腰にしろスマホ首にしろ、バグが多すぎる。作りが陸上生物に向いていない。もちろん海中生物にも向いていないし、結局どこに住むにも最適化されていない。それは駅前のタワマン最上階だっておなじことだ。トレンドの急流のなかで褒めそやされるプロポーションだって、健康的なものが美しく見えるという言説からはずいぶん遠くで行われているパーティで、そこで写真の中心に写ってグラスを掲げている黒髪センター分けの男は5年後には禿げる。

こういう暗闇が見えた時、いつも攻殻機動隊の草薙素子の沈んでいた海を思う。深く海に潜ることで生を感じていた彼女に、生身の身体を引きずるわたしは共感のようなものを覚えている。今自分が外界に接続しているその部分を、自分のものだと、自分自身だと、あまり信じられていないからなんじゃないかなと思う。身体がたましいをつなぎとめる杭の役割をきちんと果たしていない。知覚できる世界の鮮烈さに、はじめて生きた心地がする。

感受性と視点である自分が、この世界とわたしをつないでいる。そのかすがいがあるからこそ、うまく魂が乗り切らない身体を引きずるように動かして、痛い世界を生きているのだろう。老いていく身体が、もっと思い通りにならなくなったら、センサーとしての身体の受容器に蓋をしてしまったら。わたしの絶望は生を保つ意志を超えて世界全部を包み込むかもしれない。

その恐怖を感じながら泣き叫んでつけた足跡も、それはそれで非常に強い匂いを放つ生だろう、と思う。それがわたしの好みであるかどうかは別として。