「自重して半裸」だったのに。

 

秘密基地のような遊び場のような共同オフィスを、既婚同性友人と運営している。ある日わたしたち2人はオフィスで夜遅くまで飲んでいた。そして、わたしは暑かったので、半裸だった。(許可はとってから脱いだ認識をしている。)

その状態で、まあまあ真剣な議論をしていたら、「どう見られているかに意識がいかないのって、そういうことなんだろうね」という意のコメントをもらった。

その言葉が案外自分の中でひっかかるものになったので、こうやってキーを叩いている。

自室やホテルの個室という自分だけのスペースでのわたしは、まあまあな頻度で全裸である。気温が許す限り、勝手にわたしを判断の中に押し込める他人の視点を浴びない限り、しんどい布をまといたくない。肌表面の触覚で理解できることは多いのに、あえて蓋をし続けると感覚が鈍って気持ちが悪い。夏は特にそうだ。なぜ体表面を常に覆っておかなければならないのか。

そんな感覚でいるので、わたしのなかでは “自重して” 半裸でとどめているつもりだった。ところが彼女の中では、真顔で話してるけど半裸、オフィスと友人=ある程度の公共性のある場で半裸、という違和感が拭えなかったらしい。大きな認識の相違がそこには存在した。散々このブログで学校に合わなかった、組織に馴染めないうんぬんを書き連ねてきたが、「うん、そういうとこだぞ自分」となった出来事だった。

今日川沿いで日光浴をしながらストロング缶を飲んでいる半裸のおっさんを見た。だれもおっさんの存在を気にしていなかった。なんであの人はよくてわたしはだめなんだ。わたしがおっさんだったら許されたのか。結局この問いに出るのは『ポジショナリティが違うから』という答えでしかないし、わたしがおっさんだったら、それはそれで生きづらそうだ。余計な嘆息は口の中に留め置いて溶かしてしまおう。

正直、本当に”暑いから布を剥ぐ” という機能的行為の延長にしかなかったので、自分の中では犬が舌を出して体温調整つするのと同列に位置付けられている。あとわたしは相手が半裸で真剣に話してても、ふうん、と思うだけなので、「自分だったらどう感じるか」が効かない。その想像で行動の指針を決めると、大概失敗する。だから一生懸命本を読むし他人の視点を理解しようとする。

温度調整、性的シグナルの低減、社会的属性のアピール、などなど服の機能は多い。だからそれなりに落ち着いていて仕事ができて信頼できそうなイメージ記号を発する服装を、文字通り装っている。それだけでなく、実家でさえも「お父さんの前でパンツいっちょで歩かないの!」と怒られる理由が今はわかる、言葉としては。

服を着ないといけない、さらには布を巻かないといけないのに毛は取り除かないといけない、という風潮全体的にいまだによくわからないまま30歳になって、もうどうしようもない。身体を自分が所有していて自分がそれで外界に接続し、外界の判断と対応に晒されて続けていること自体がやっぱり納得がいかない。一昨日に来た 『思い通りにならない身体なんていらん…! 』 という衝動はこれの伏線だったのか。

ひととおり嘆いたあと、社会が分からなさすぎて人類学やってるところが大いにあるなと思った。

自分の生まれ育った “シャカイ”すらもある程度のスコープ深度で相対化して見られるから、自分の不利を転換できる分野ではある。写真もそうかもしれない。自分の視点をなんとか言葉以外の方法で伝えたくて、でも自力で描画しきることはできないから、機械の力を借りている。

性についてよく知ろうと思うのも、同じ動機なんだろう。生物的・社会的な性差という概念・性ごとにまとわりつく記号を知っていることと実感として内面化していることは同じではないし。

“らしく” が全体的によくわからない。”そういうものだから”でうまく納得することができない。

だからすぐオープンクエスチョンを畳み掛けてしまうのだけど、それはとても相手を選ぶやり口だ。しかし、自分には対応可能な人をうまく見つけ出す技能が低いから気をつけたほうがよい。同時に、詰問だと受け取られないように相手から体験や感情に紐づいた判断の根拠をひきだす技術を磨こう。

なんかむずかしいことのように書いてしまったけど、世のなかの大人は暑いからってむやみに布をはいじゃダメなんだな〜。たとえ仲良い同性の前でも関係性に甘えすぎないように気をつけよ。