謝罪という儀式の向かう先

現在7月18日時点で、オリンピックの開会式音楽担当に選ばれたミュージシャンが、もはや明らかな犯罪行為だろうといえるような凄惨なイジメの加害者となり、それを雑誌上で堂々と告白していたことが炎上している。この件で、取り上げるべき点はいくつもあるだろうが、当ミュージシャンが「当時イジメた本人に直接謝罪をしたい」という文章を発表したことについて、わたしは特にモヤモヤしている。その謝罪は、誰に向かったどういう目的のものなんですか、と。

謝罪と聞くと、祖父の事故死を思い出す。

祖母が倒れ、その介護をしていたわたしの祖父は「介護する人間が先に逝ってはいけない」と健康維持のための散歩を欠かさなかった。その日課の散歩の途中で青信号を渡っていたところを大型トラックに轢かれ、即死した。原因はトラック運転手の不注意だった。

もう髪の毛も大半が白髪になった年齢の、ひょろりとしたメガネの男性。裁判で執行猶予付きの判決がおり裁判が閉廷した直後、私達家族のところにやってきた彼は、謝罪した。そして「直接謝罪したかった、やっとそうできて、スッキリしました」と言ったのだ。

当時わたしはまだ20歳そこらで、涙を浮かべる父と被告の間に立って、相手を睨みつけることしかできなかった。相手とは一度も目が合わなかった。

「スッキリしないでください、わたし達は忘れません」と言えばよかった。

善良な市民の大きな失態、裁判所の判断はそう物語っている。被告は家族の病の看病に日々消耗し、またこの件を反省して自動車免許を返納し、会社の別の仕事をすると裁判所では陳述していた。表情やふるまい、所属会社の説明からも、実際に反省しているだろうことは見て取れた。

だからこそ、あの「スッキリしました」の言葉が私の心に大きな疼きを残した。わたしはそれを憶えている。一生憶えている。なにかを押し付けられた気がしたから。

加害者は、謝罪によってスッキリできる。体面を保つことができ、周囲との関係性を改善でき、何事もなかったように生きることができる。自分に痛みが残らないのであれば。

スッキリするな、祖父を返せ。

もちろんこれは、今回批難されているイジメの件とは構造が違う。トラック運転手は、自分の両親の呵責・罪悪感から逃れたかった。

では今回の炎上ミュージシャンの謝罪は、明確な意思を持って抵抗する術を持たない者を痛めつけた過去・それを雄弁に語った過去・全てをかかえて生きてきた先の地続きの現在に行われる “謝罪” は、誰に対する何を目的としたものなのか。

謝罪は “儀式” だ。失態を恥じ、反省する社会的良識を持っている自己を示し、同じ行為を繰り返すまいという誓いを立てて自分の失態の被害を被った相手に対してそれを約束し、受け入れ・赦してもらいたいと懇願する行為だ。

しかし儀式はよく形骸化する。往々にして公的なバッシングを受けて出される「直接謝罪をしたい」というメッセージは、自分が加害した相手に赦されなければならない苦しみを負うているからではない。最初から痛みを感じていないので、赦された気になってスッキリする必要もない。

謝罪という儀式を通じて、悔い改めた自分の姿勢を自分を非難する社会に見せ、現在の自分は別物で信頼に足ると提示する。その射程には、被害者はいない。数十年後に公に非難された相手の都合で謝罪の場に引きずり出されるかもしれない被害者の心境を慮るちからも存在しない。

わたしもイジメのようなものについては経験がある。今回問題になっていることの程度とは比べ物にならないくらい “軽い” ものだしわたし自身にも存分に問題があったのだけど、それは保育園〜高校生の私を深く傷つけるに足りる言動で、わたしはそれを20代後半まで引きずった。悪口を広められた、仲が良かった子との間を裂かれた、言動を笑われた、その程度でも人は20年痛みを背負い続け得る。

イジメにも色々ある。どこからが犯罪で、どこからがイジメで、どこからがからかいか。からかいのつもりでイジメを行う者たちと、それをイジメだと認識したうえで行う者たちと、どちらがより醜悪だと判断することはできるだろうか。本当に「からかいのつもりだった」加害者たちにとって、自分たちの行為はイジメではないと思える根拠はなんだろう。イジメという言葉は何を想起させるのだろう。議論は尽きない。

人をバカにし続けているひとはたくさんいる、そこらじゅうにいる。わたしの仕事相手にも、昔シェアハウスに住んでいた人のなかにもいる。日本人のエリート医師のなかにも、ガーナ人の銀行員のなかにも、バングラデシュ人の土木作業員のなかにも、トンガ人の高校生のなかにもいる。でも彼らのうちの多くは十分にしたたかで合理的だから、ルールを破って自分に面倒なことが降りかかるのがイヤだから、加害行為になるようなことはしない。わざわざ他者に見える悪意を振り向けない。

人にはもちろん相性があって、合わないひとと一緒にいる、仲が良さそうにふるまうのは苦痛だ。それぞれ折り合いをつけて、自分に適したコミュニティを探し歩くのが人の社会の常だ。しかし自分とうまくフィットしないものを攻撃したりする人間の精神構造をわたしはよく覗き見ることができない。自分と合わないもの、弱く見えるもの、いびつに見えるものは攻撃してもいい、攻撃するのは楽しい、そう思わせるこころはどこからくるのだろう。

わたしに超自然的な力があったなら、他人をからかって楽しいと思うような感性の育つ土壌を取り除いてしまいたい。

また、イジメにはあえてスケープゴートを作ることで、仲間内の価値観を確かめ合う、結束を高める、という目的もあるだろう。その場合、学校なら教師、社会なら警察や行政といった上位権力による治安行為が必要だ。個人的にはそんなことをしないと価値観を確かめ合えない関係性は悲しいものだと思うけれど、でも嘆いたって雨後の筍のように発生するものだから、それはそういうものだとしてせめて自衛と治安の力を培いたい。

幸運なことに、自分の傷をかばい治すことに必死にならなければならない時期は過ぎたように感じる。しんどい人たちが息を整える時につかむ細木をめざしていきたいと思う。

村上春樹が、エルサレム賞授賞式でこう言っていた。

“Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg.” (高くて強固な壁と、その壁にぶつかって割れる卵があるとしたら、わたしは常に卵の側に立とう」)

*原文- Haaretz(日本語訳: ごろびよ)

これは国家権力というシステムvs脆弱な個々人の市民という意図での比喩だったけれど、理不尽な力に一方的に殴られ傷つくひとはもっと小さい日常生活の範囲でも同じように存在する。

かのミュージシャンは目下、集中的な批判や攻撃に晒されている。そしてそれを眺める取り巻きがまた色んなことを言い、議論は紛糾し、複雑化する。

わたしは個人への社会的制裁というものが良いとは思わない。でも同時に、過去の罪がパフォーマンス的な謝罪によって浄化されるような世界にも住みたくない。個人的な体験と世論と倫理の間でゆれるアンビバレントな心を抱えながら生きていくしかないのだ。なんとか、卵の側にたつ精神をわすれたくない。