友達ができない悩み(1): 自分のポジション分析とマーケティングが不足している

 

「んなこと言っても、友達けっこういるじゃん。」

わたしがこじらせたことを言った時によくかけられる言葉だ。

「今は。」とわたしは答える。

このブログも、いわゆる “生きづらさ” について多く語っている割には、さらっと友人や知人の助けをかりたエピソードが出てくる。それができたら苦労してないよ…、昔の自分がこれを読んだらそう思うだろう。

もともと、そんなに友達と言える人は多くなかったし、仲良くなっても横から乱されたりして結局ひとりだった。友達づくりでもそんなだったわけで、学生時代に学校内で恋人をつくるなんてもってのほかだったし、バイトでもなかなか話の輪に入れている感覚はなくて、なんでこうもうまくいかないのかと孤独感を募らせていた。

現在も交友関係は広くないが、深く話せる人・助け合える人・絶対的に信頼できる人は複数いる。そういう人たちの存在が、わたしのQOLを大いに上げてくれている。でも、そういう人との関係構築はなんとなく自然とできたことではない。これでも考えて考えて、やっと手に入れた場所なのだ。

以下、わたしがいかなる周囲との解離を抱えていてどう改善してきたかを書きます。全て自分の視点と経験から得られた知見でしかなく、なんの学術的うらづけもない自論です。そのつもりで読んでください。

人間関係はすべて、状況と文脈と適量のコミュニケーションだよ。

前提として、世界はしたたかに生き抜く場所である

昔は色々と、勘違いしている世界の前提があった。保育園の先生は「友達をたくさん作りましょう」「みんなとおもちゃを分け合って仲良くしましょう」と教えてくれたし、わたしがそれに倣ったふるまいをすれば他の人たちもそうするんだろうと思っていた。でもわたしがまだ使いたいおもちゃをガマンして貸したって、その子もガマンしておもちゃを貸してくれるとは限らない。

わたしはなまじ真面目で、「努力」に耐性があって、本を長時間読みことばで自分の意見を的確に表す能力があって、他人の感情や思考に想像を及ばせる体力があった。その代わりに足は遅いし逆上がりはできないし、いつも笑顔でいることはできなかった。それが自分の特性で、自分に適したポジションを探すのがコスパの良い生存戦略だとも思わず、自分の目に入る全ての人に好かれ仲良くするにはどうしたらいいのかと右往左往して空回っていた。

そして人はたいてい適当で不真面目で、自分の好きなもの以外を理解する姿勢を見せないということを知らなかった。多くの人は自分に関係のないところで起こっている不正義に対してあえて怒ったりするには忙しすぎる。横目でみて心配していても、あえて自分から介入しようとはしない。罰則を伴って課せられた義務なら自分の損にならないように守るが、それ以上の貢献を社会に対してしなければと思うなんて、それ自体が趣味みたいなものだ。与えられた役割を最低限演じ、与えられたルールを最低限守り、時にはうまく利用して合理的に功利的に折り合いをつける。そしてごく少数のとても近しい仲間関係のなかで、損得を度外視した誠実さを披露する。世界って、そういうものだ。そう思い至った時にわたしはかすかに失望したが、同時に心のつかえがおりたような気にもなった。

利害が異なる人が多く行き交う社会において、清潔な服装でにこやかな表情で丁寧な言葉づかいをする必要があるのは、自分がコミュニケーション不全の危険人物ではないと示すためだ。人は、出会う一人一人すべてを深く理解する時間を取ることはできない。だから、最大公約数の好感度を得るために色々と工夫をする。言葉をあいまいに、礼儀にくるんで相手に差し出す。そのような場において「どうして自分が自分のままだったら受け入れられないんだろう」と嘆くのならば、見えている世界の前提がずれているということだ。

日本は宗教観によって明確に規定された社会理念があるというより、なんとなくメディアや声の大きい人々によって作られた “正しいふるまい” や、その際たるものである “モテ” が蔓延っているから、うまく読み取って自分の中に取り込んで適応できない人間にはポジション確保がむずかしい。わたしもずいぶん振り回された。

自分がどういうシグナルを発しているかに意識的になる

社会のなかでまず話を聞いてもらうためには、そういうことをする価値のある人間だと捉えてもらう必要がある。その本質は 『無害で有益なひと』『信頼してもいい社会の一員』という印象を相手に与えたら勝ちだということだと思う。

まずは見た目だ。わたしは自分を装うことに全く興味がないし表情も硬いし怒ったような眠たげな顔の作りをしている。だから “まともな社会の一員っぽさ”、”仕事ができる人間っぽさ”、”いい人っぽさ” を出すために、「人当たりの良さそうな書店員っぽくしてください」と美容院でオーダーを出す。眉毛を並行下り目に整え、瞳を大きく見せるアイラインと涙袋、口角を上げるリップラインを描き、シワのよりにくいナイロン繊維混のブラウスを来て、仕事ができそうに見えるフレームなしメガネをかけ、5cmヒールを履く。

そして親しみやすい同級生口調、年の近い講師口調、人懐っこい店員口調、親切なコーディネーター口調などを見聞きして真似、自分のふるまいに取り入れる。言葉遣いがかたく、自分の話す速度で理解してもらえないことが多かったので、ひとつひとつ区切ってゆっくり話す。そのときに性格もおっとりしているような雰囲気を醸し出す。やりすぎるとあざとさが出てしまうが、ある程度おっとりした人間であると思ってもらったほうが、心を開いてもらいやすいと思っている。自分の見た目とふるまいになかなか自覚的になれないからこそ、自衛のために深く考え、日々チェックをする。表情や姿勢ひとつで「この人、なんかずっと怒ってるな」「傲慢そうだな」なんて思われたらたまったもんじゃない。そんな誤解で損をするのは惜しすぎる。

そこまでしてやっと、自分の意見を一人前に取り上げてもらえる。ずっと「正しいことを言っているのはわたしの方なのに、どうしてこのでたらめを言う自信過剰人間の言うことばっかりもてはやされるんだろう」と不満を覚えるようなことが多かった。今思うと、わたしの話し方が回りくどく、自信がなさそうだったのだ。第一印象で刷り込まれた心理バイアスに、人は左右される。言った内容はその次なのだ。めんどうくさい世の中だけど、そういうものだと思って乗りこなしていくしかない。

そして取り繕わない自我を出せる場所は広く薄い “社会” ではない。わたしのような人間にとっては、社会は自分そのままを出して器用に渡り合っていけるような優しいオアシスではない。社会的に好感を得られる生来的資源だけでなく、反射神経も割り切り力も鈍感力もないと自覚した上で、なんとか生き残っていく戦略とそれにギリギリ割けるリソースを考え続けることが一番大事な鍵だ。自分に適したコミュニティをかぎ分け入り込んでいくのはまた別の話である。

自分の入りたいコミュニティを探して入れてもらうまでのプロセスは “マーケティング”

服装やふるまいや思想やキャリアや制作物で相手に対してシグナルを発し、そこに共感する人が集まってこそ “社会” よりも小さい規模で同質性の高い “コミュニティ” ができる。(ここでいうコミュニティは、地理的に近しい住人の集まりという意味ではない。)自分の入りたいコミュニティ・仲良くなりたい人を探して内側に入れてもらうまでのプロセス、それをわたしは “マーケティング” と呼んでいる。

友達には人をメリットで判断するな、と言われたが、それはちょっと違う。「こういう人なら仲良くなりたい、仲間にしたい」と相互に思う必要がある場面なので、自分の価値により自覚的である必要がある、という話だ。同じ趣味、同じセンス、同じ志、なんでもいい。自分が好感や共感を持つ相手にとって、自分は一緒にいたいと思える魅力があるのだろうか。

自分の価値を見定めてマーケットを選ぶ必要がある時に、今のままの自分に適したマーケットを選ぶか、自分を加工した上でマーケットに載せるかをまず考える。

どうやってわたしが自分の発するシグナルを調節したかというと、まず自分が居心地よく感じるタイプの人はどういう人と仲が良いのかを観察した。そして、その人物がそもそも自分の努力で磨けるものの届く範囲にいるかどうかを見定める。わからないのならできる改善を全てした上で自分から話しかけて「仲良くしたいです」シグナルを発してみる。こういう特攻型試行錯誤をナンパでやっている人がTwitterにいて、それは女性の目線でみて不快なだけだったけど、全力で友達を作りたいのに試行錯誤することは人間として真摯な行為に見える。

ただ相手をよく観察してみて反応が鈍かったり居心地よくなさそうだったら、すぐに引くのがめちゃめちゃ大事だ。わたしはそういう部分の感受性が鈍いが、その自覚がある分、相手が曖昧な反応を見せたりしたら、それがどういう意味かよく考え、わからなかったら丁寧に尋ねるようにしている。粘着質な人間は性別問わず、心理的安全性に悪影響を及ぼして未来永劫仲良くなるチャンスが失われる。今の自分では不十分であるのならば、その事実をニュートラルに理解し、自己改善ゲームの続きをするのみ。

わたしは自分の居たいコミュニティ内で好かれる人物の服装や趣味やふるまいの “模写” しながら、重要要素を洗い出していった。真似は格好悪く思えるけど、本質をつかむのにはかなり手っ取り早い。自分が仲良くしたい人が気にしない項目に関しては、容赦無く手を抜く。全面モテは目指していないから。

それに、人には特性や役割があるから、リーダー気質でもない人が無理やり指導者っぽくふるまうと逆効果。図書館にいるのが好きなのに音楽イベントに無理やりいくのも、その逆も違う。無理はしすぎるもんじゃない、無理しているのって案外ひとに伝わるものだ。憧れと気の楽さの違いは、明確に自覚しておきたい。

また、好かれる人の真似事をしたとて最初は下手だから当たり前にぎこちなくて、あたりまえにギクシャクした関係を生む。その失敗で凹むのが危険で、一旦崩れ落ちるとまた立ち上がるのに時間がかかる可能性がある。だから失敗をニュートラルに捕らえるため「失敗でなくて改善点の洗い出し」だとか「5回目まででうまくやるゲーム」だと思っておいた方がいい。失敗はした方が、自分の現在の立ち位置を明確に知ることができて改善までの方針を描きやすい。ただ他人に優しい人ほど傷つきやすくて戸惑いやすいわけだから、自分に適した言い訳を見つけることが大事だと思う。わたしは人生はすべてフィールドワーク調査だと思い込むようにしている。

このへんはすぐに変わるものではないし、長い目で見て根気よく自分を磨くといい。類友とはよく言ったもので、自分が相手の興味を引く人間になれた場合、おのずとそれ相応の人と関係を構築することができる。

そして、どう頑張っても他人の完全なるコピーになることはできないので安心して存分に素敵な人を模写したらいいと思う。完全にコピーすることができたらそれはもう才能だから、それでお金を稼ぐ方法でも考えたらいい。

これはセンスの磨き方や技能の伸ばし方でも同じことだ。センスは、自分が直感的に好きだと思うものを並べ、それを一度じっくり眺め本質的要素を抽出することで磨かれると思っている。わたしはとくに人生かけてやりたいこともない人間だけれど、それでも自分の思考と嗜好と志向について常に自覚的であったほうが、より良い方向に人生の進路を取ることができる気がしている。

ちなみにわたしは大学が嫌になって流浪の一人旅をし、その “旅” というキーワードでたくさんの異文化に寛容な人々と出会うことができた。年上の人が多かったので、言葉遣いや話を聞く姿勢にはとても気をつけたが、自分の意見をはっきり言っても受け入れられる環境だった。ただ旅好きにも色々あって、クルーズ好き、パーティ好きやヒッピータイプの人とは合わないとわかった。逆に旅先の住人と拙い言葉でも対等な一個人として会話をし、同じ釜の飯を食う関係を好むような人とは共感できるところが多かった。人間関係の合う合わないをひとつひとつ確かめる行為というのは、まるで自分の鏡を見ているようだ。

インターネットのニッチへの強みは、薄く広い社会に不向きな人間の逃げ場だよな、と改めて思う

いまのままの自分で受け入れられたいのならば、自分のままで仲良くしてくれる人はどういうところに生息しているのかをリサーチする。学校や仕事という理由で地理的に移動できる制限があるので、身近に気が合う人がいない場合も多いだろう。今はインターネットがあるから、国を超えてニッチな趣味でつながり合える。自国でだって、趣味・嗜好のキーワードでTwitterやMixiを検索したら言葉を交わし合うくらいの人はすぐできる。知人であるメキシコ人の弟は、醜形恐怖症でうつを患っていて引きこもりだったが、オンラインゲームで多くの人と知り合い、いつの間にか英語も流暢になり定時制学校にも通うようになった。自分から探し求める人にチャンスが増えるという意味で、本当にインターネットが好きだ。

ただミソジニー(女性嫌悪)・ミサンドリー(男性嫌悪)、極左・極右、似非科学やカルト宗教や胡散臭いビジネスは、この類のさみしい人をメインターゲットにしている。自分にただ都合の良いことを言ってくれる人が欲しいわけではないので、何らかの思惑があって近づいてくる人に取り込まれないようにはしたい。それによってのちにもっと深く傷つくことになりかねない。

 

続きます。