しょうもないことを書く練習とそこに課すゲーム性

 

しょうもないことを書く練習をしようと思う。だから、この投稿でそのルールを考えていく。

なぜそんなことをするかというと、第一に書くことを決めるのに時間がかかり過ぎて疲れ、結局書かないことが多いから。そしてしょうもないことは、書き出してみたら案外面白いからだ。最後に、しょうもないとわかっていることを書き出すとなると、自然と「せめて文体でも工夫してやろう」という気持ちになるので、それを狙っているのもある。

「こんなことを書いてどうなるんだろう、誰のためにもならない無駄なものを生産してもしょうがない」という気持ちが、文字が紡ぎ出されるのを押しとどめてしまっていたからだ。しかし、自分もしょうもないことこそ読みたくなる時もあるし、そもそもいままで書いていることも、たいして偉大ではない。結局しょうもないんだから、自分のなかで仕分けすることなくなんでも書き出してしまえるようになりたい。読むかどうかはそれを目にした人が決めることだ。

Twitterで、たくさんの頭が柔らかい人をフォローしている。生きていくために必要なことを10選ぶとしたら全く箸にも棒にもかからないような、身の回りのささいなことに対して、それはそれは発想が豊かな人が世の中にはたくさんいることをそこから学んだ。「そんな見方があったか…!」「うまいこと言うな…!」と思った後は、なんだか少し愉快な気持ちになっている。そういう言葉の使い方をできる人と仲良くなったら、きっと一緒に遊んでも楽しいだろう。

わたしも自分から半径10m内にいる人にもっと楽しいと思ってほしいし、自分と気の合う人をもっと見つけたい。インターネットのいいところは、世界のどこか遠いところにいる、自分と気の合う人を見つけられる可能性に満ちているところだ。

しょうもないけれど楽しいことは “ハレとケ” でいうと “ケ” の方の時間を盛り立ててくれる。生きている中でケの方が長いんだから、1秒1秒の愉快さを自分で増大させることができたらお得な気持ちになるだろう。人生しょせん遊び、そんなスタンスで生きることを選んだからには、もっと振り切れたい。

ということだから、自分のしょうもない日常について書くのが一番しょうもなくていいのではないかと思って取り掛かってみることにする。わたしのしょうもなさが面白い時もそのうち出てくるかもしれない。気軽に何かに取り掛かれるようになりたい。その一歩としての、しょうもないことを書く、なのだ。

しかし、往々にしてわたしはゲーム性のないことができない。脳みそが短絡的な報酬系への刺激を求めて止まない。というわけで、しょうもないことに少々の工夫を加えて書き続けようと思うと、なんらかの縛りが必要だ。というわけで一本15分しかかけてはいけないことにする。

というわけで、もう書き始めて15分だ。強制終了します、さよなら。