本を読む姿勢

 

本が好きだ。文章に没入して、頭の中でイメージを二重にも三重にも展開していくのが好きだ。

でも本を読んでいるときにいつも抱えている葛藤がある。それは、姿勢だ。そう、背筋を伸ばすとかの、物理的な姿勢。

元から筋肉の低緊張のきらいがあり、シャキッとしてくらすのはなかなか難しい。中学の部活以外ゆるやかにしか体を動かさなくなったものだから、より筋肉量は低下し、いつも意識していなければ、すぐに背筋がゆがむ。それにハッと気づいてまた姿勢を正し、またゆるむ。その繰り返しは、耐えられる程度にしろ、苦痛を常に与え続けてくる。本の世界に没入しようとするときには、その身体に向ける意識が邪魔になるのだ。

いままで、うまく身体にフィットする椅子にも出会ったことがない。ちょっと高めのオフィスチェアもあまりしっくりこないし、結局ソファかベッドか床にどでんと寝っ転がって、完全に脱力した身体をもって本に目を通すことになる。薄い小説文庫本なら、だいたい読み終えるのに2時間くらいかかるだろうか。脱力しっぱなしならしっぱなしで、首や肩が凝ってくる。

途中で休憩して体操でもはさんだらいいじゃないか、そうだろう、自分でもそう思う。しかし読んでいる本を、途中でやめられない。トイレにも読みながらいくし、お腹がすいたら本に目を落としたままキッチンに行き、手を汚さないように干し芋をかじる。そうする理由は、没入感を失うのが惜しいから、そして一度やめたら今度は戻れなくなるのが怖いからだ。

そもそも、毎日少しずつ読み進めるということができない。もっというと、毎日少しずつ同じことに取り組むことがほぼできない。だから、小さいクロシェットは簡単に編めても長いマフラーは作れない。2000字のブログは大量にかけても、大学の卒業論文になると途端にボロボロスカスカになる。

もちろん読書を途中で放り投げることはある。その場合は理知的な中断とは程遠い、調べ物や寝落ちや急な仕事、またはあまりに急激な共感性羞恥に耐えられないといった理由だ。難しい本も、理解できずに嫌気がさして読むのをやめてしまうことがある。でも最後まで読みたい完璧主義なところもあるから、基本的に本はどんなものでも読み通すようにしている。だから放り出したものも、ペンディング状態としつつ、また次の日は次の日で新しい1冊に手を伸ばすのだ。そんなわけだから、いつも部屋には読みかけの本が4、5冊机に、2、3冊床に伏せて置いてある。

ノートやらくがきや本や役所からの通知書類といった紙の束で埋まりかけている床の、空きスペースを見繕って身体をねじこみ横たえる。読んでいるページをまた手近な本を文鎮がわりにして固定し、さも猫の香箱座りのごとく手を身体の下に丸めこみ、目だけを動かす。

本に囲まれて育った。文字を覚えるのも早かった。しかし親が育てたかった “本好きの子供” は、こういう、今のわたしのような退廃的なイメージをしていない。

「ちゃんと座って読みなさい!」小さいころから言われ続け、しかしそれにはついぞ応えることができなかったので、わたしの鼓膜はその言葉を濾し取り、反対側から排出する術を身につけた。わたしだって試みはしたさ。「ちゃんと」って結局なんだったんだよ、具体的に説明してくれよ、大人たち。「ちゃんと」とか「きちんと」なんていうあいまいな言葉でくるまれた主観的な目標を委ねないでほしかったよ。そうして、わたしのグニャングニャンの読書姿勢が形成された。もはや精神を反映した姿勢だとも言ってもいいかもしれない。

そもそも実家近くの大学を卒業してすぐシェアハウスに移ったのも、ごろごろ本を読む生活を続けていると叱られるだろうから、だった。座ってたら疲れるんだよ…座る努力をしたら読書が進まないんだ。

身体はなまくらなまま、頭は次々と文字列を欲する…それならもういっそ身体を捨て去ることができたらいいのに。わたしのサイボーグへの憧れとかSFへの興奮は、そういうところから来ている気がする。

そんな生活を続けていて、27歳で一度身体にガタがきた。肩が上がらなくなったのだ。四十肩と呼ばれる症状をかなり先取り経験してしまったわたしは焦り、生き延びるために必要な最低限の運動をしかたなく始め、危機は脱した。29歳からは整体にも行っているから首こり肩こりも改善してきた。

しかしやっぱりたくさん本を読みたいと思うと、どうしてもじっとしている時間は長くなる。運動もしたいけれど、本に没頭してしまうとその時間も惜しい。そういう限られたリソースへのコンフリクトを抱え、今日もごろごろと部屋を転がりながら時折首を回し、足をばたつかせ、そして文字を追っている。