とっ散らかってしょうがない時、思考も行動も発話も全部スピードをおとす

どうやら自分の中にはストレスを増幅させる機構があるらしく、それはデフォルト設備ではないようだと気付いたのは去年ごろだった。結局、小さい頃周りの大人がよかれとおもって言った言葉をしごくまともに受けとってしまったあげく、全部実行しようとしたから起こったバグなのだけど、普通「それは抱えきれない」と思ったら手放して忘れてしまえるらしい。知らなかった。それで今年、そういうお気楽さを、明るい諦念を、後付けで得ようといろいろ試みてきた。とまあ、いろいろやってみたけれど、「減速する」のが一番大事だったかもしれない。

あまりにも多くのことを抱えすぎて、うまくいかないことも多くて、しかもそれを忘れられない。周りが楽しそうなのに自分だけ何かに怯えているのは、自分ばかりが至らないからだ。そういう思いが芽生えたところから自分の中に異形の自覚みたいなのが内在するようになった。それは、たくさんのものを手放したここ数年を経てもなかなか剥がれ落ちない。それなりに人間関係も紡げるようになったし、声をかけてくれる人のおかげで仕事にもなってるし、生活水準も悪くないのに。それが自責や黒歴史フラッシュバック&パニックにつながっていたのだけれど、ひとつひとつ解析し、つぶしたり組み替えたり色々してみて1年強、だいぶんとその定期的な傾向と対処法がわかってきた気がする。

自分のポジショナリティを理解するのが、まず大事なことだった。どういうことかというと、他人からどう見えているかをニュートラルに捉える、属性ごとの一般的な印象を把握するということだ。わたしがどれだけ「客観的にみたところで自分はダメ人間だ」と思っていても、他者から見える自分の部分なんて、性別・体型・若さ・健康状態・ファッションぐらいで、言葉を交わしたところで一層目にあるのは学歴や職歴だ。数回のコンタクトで相手を深く理解できる読解力のある人間はそこまで多くない。いろんなことで思い悩んでいても、わたしに欠落しているものは相手に見えない。

この権力、つまり恵まれている地位の図をみると、一番外側であることがほぼない。(メンタルヘルスは脆弱なんだろうか、どうなんだろうか。しかし自分よりもずっと脆弱な人もいるはず)というわけで客観的に恵まれて見える場所にいる。(もっとも、これもアメリカで作られた図に見えるので、アメリカ視点であることを忘れてはならない。)

自分の行動は、多数の人にとって「出来るくせに、恵まれているくせに。僻んでいる、怠けている。」みたいに見えるということを自覚できたのはよかった。自分の痛みを効果的に理解させるコミュニケーションをしていないのに、解ってもらえないと拗ねるのは間違っている。「意識しないうちに他人に見せている自分」をうまく把握・コントロールすることで改善するコミュニケーションは多い

それに加えて、わたしは人間の外見的性的魅力みたいなものに疎い。だから他人が勝手に受け取っているもの、逆に受け取るべきところで感知できないことは、多くあっただろう、今になってそう思い至った。キャサリン・ハキムの「エロティック・キャピタル」から、このようなコミュニケーションの齟齬の理由を導き出せたのはよかった。まぁ、無理して外見のシグナルをわかる必要もないし、対話から見える人間性のほうが好きだからセックスアピールのみでコミュニケーションを取ろうとする人間をフィルタリングできて、かえって良かったのかもしれない。

その次が自分の能力をつぶさに観察することだった。いままでスペック: 知力○、体力△、気力× だと思ってきたけども、知力をさらに細分化すると、状況把握◎◎、観察力◎◎、記憶力◎、分析力◎、予測力△、戦略策定△くらいなんだろうと結論。気力に直結する名誉欲や承認欲求、物欲がなくて、戦略・計画・交渉力あたりが全然育たなかったのかもしれない。あと、自律心が極小であることを加味しないで計画を立てたところでそれは知的とは言えないので、この辺についてわたしはとてもポンコツだ。

とにかく状況把握はめちゃめちゃ得意なくせに「状況はわかるけど、今はそういう行動を取る気分ではない」という場当たり的な欲求で、場を混乱させる。長期目標を立てること自体はできるが、「予定ではこうなっているけど、今そういう気分ではない」と思うと行動が取れないので目標が達成されない。締め切り前3日のパニック状態になってやっとフルスピードが出るので、大きいことができない。(その代わり、予定外の変更なんかにはめちゃめちゃ柔軟で平静に対応できるので、緊急だったり状況が読めない仕事に重宝されてきたから、生き延びるだけの収入を得られているわけなので、塞翁が馬なんだな、と思う。思うようにならない方向で生かされて、皮肉に感じてしまう…。)

あとは状況把握能力と観察力がオーバースペックで、いらない情報を取り込んだり、自分が見えているものは他人にも見えているだろうと思いこんでコミュニケーションに齟齬をきたしたりする。この記事の最初に述べた、「周りの大人の言うことを細かく解して記憶しつづけ、その意図にそぐうように努力し続ける」も、なまじ出来ちゃったから悪い結果になったのではないか。

また他人に喜んでもらいたいことが行動の動機になりがちなのに、集団にいると合わないし疲れるから、どこにいていいのかいまだにわからない。自分のためにいろんなこと達成してそれで喜べるようになる修行には何をしたらいいのか、これも今でもわからない。この辺はもうちょっと探求してみたい。

ちなみに他人というのは半径10メートル以内に存在する自分以外の他者のことだ。ここの解像度ばかりにむやみ高くて、その外側の「外貌のみ知っている”2.5次元”の人々」「ストーリーの見えない群衆」には全く興味がない。というわけで、可視化 =いいねの数値とされるSNSがとても苦手だ。

状況把握能力に対して、その状態に理由を取り付けるとき、是非の判断をするとき、出てくるのが倫理観や道徳観だと思っている。その思考プロセスの中から自責がなくなっただけでだいぶんと楽になった。自分が至らないせいで失敗したとしても、「現時点での能力不足」という事実を個人の生来の資質と切り離して感情を入れずにニュートラルに捉えられるようになった。

そして、意図的に減速することだ。何か合ってないと思う時は、だいたい自分のリズムが早すぎるということがわかった。思考も身体も、早く動かしすぎていた。スペックに対しても、目の前の他者に対しても。自分は直感がやたらと鋭いのか、言葉にならずとも把握できる情報が多いのだと思う。だからいちいち説明するとかジェスチャーで示すのが煩わしく思ってしまうけれど、それがないと他者の混乱や不安を大いに招く。

これは、「あえてバカっぽくふるまう」というのとは全く違う。しゃべる、相手に対して反応する、思考する、絵を描く字を書く…いままで面倒だとすっ飛ばしていたような所作を丁寧にする、そういうことだ。全部一段階速度落としたら、驚くほどうまくいく。正直、それはそれでつまらないものだけど…鈍感さと小ズルさ、したたかさを意識したらうまく生きられるようになるのはイヤだ。だけど、でも潔癖がって効率の悪い方法で自分を痛めつけるのももうしんどいし、年を経るごとに体力と気力の低減を感じるのでこの訓練は頑張りたい。所作に気をつけていたらそれで思考のプロセッサーはいっぱいいっぱいになるから、訓練によっては集中力を増すこともできるようになるだろう。

これに関連して、身体を丁寧に使ってみるということも効いた。これまで体の使い方、筋肉と関節に優しい姿勢や歩き方、自分の体の輪郭すらきちんと把握してなかったから身体的にしんどくて、それが精神的しんどさに繋がっている部分もあったと思う。身体改善の必要に気づいた時の、幼児みたいなまっさらな状態から、身体的に睡眠時間が9時間必要、5人以上人がいる場所ではあまりにも疲れすぎるということ、いろいろ学んだ。身体を無視して引きずっていたから身体の方も徐々に警告を発しなくなっていて、急激にダウンするような仕様になってしまっていた。自分が若い頃思っていたよりだいぶと怠けた30才だけど、楽にするとこういう状況になるということは、これがわたしにとっての適量なんだろう。

最近のわたしは、頭が先走りそうになるといつも「ひとつ・ひとつ」とおまじないのように言い聞かせながら、付箋にtodoを書き出し、ゆっくりしか書けない重い万年筆で字を書く。そのほうが結果として早く丁寧なゴールにたどりつくんだと学んだから。相変わらず、頭が衝動的に「面倒だ!」と避けたがることもたくさん起こるけれど、それでも少しずつ出来るようにはなっている。

なんだかとっ散らかってうまくいかない、人とずれると思ったら、一度スピードをゆるめてみては。