強すぎる利他心という毒、親切にすることの危険性

 

わたしは、たぶん利他心がむやみに強い人間なんだと思う。自分の属するコミュニティに何かの欠乏とか欠落があったり、人の苦しみや悩みとかを目にしたら、自分のことを後回しにしても全力で人に親切にしようとしてしまう。それはもう反射とか癖みたいなもので、気づいたらお節介やありがた迷惑になっていることも多い。そんな性質を分かってはいても、相手の気まずそうな反応を目にして初めて「あっ、しまったやり過ぎた」と気づくことが今でもある。全力で親切をはたらいていることを、相手が「そういうものなんだな」と常態化しまっても、それはそれで「消費されてる」としょんぼりしたり、突然エネルギーが切れてフェードアウトしてしまう。我ながら、めんどくさい。

もちろん、人に手を差し伸べるのはいいことだ。その前提を持って生きるべきだと思う。自分の力で立ち上がれない人を見つけたら、周りがカバーする、そんな社会性でもって人間はこの世界を形成してきたはずだから。でも要らない親切を無下にできなくてストレスを感じたり、あまりに多量の親切をもらってもそれを返せないことにしんどさを感じたり、また「親切にしてくれる裏には何かあるんじゃないか」と不安に思ってしまうこともある。

電車の中で要らないアドバイスに困り果てる新ママ、バスの席を譲られて怒り出す壮年と高齢の間でゆれる男性、親が勝手に家を片付けたりものを送ってくることに苛立ちを覚える学生…そんな話はインターネット上にも噂話の中にも山ほど落ちている。そんな話を聞く時、わたしは「迷惑をかけている側」のことをついつい考えてしまう。相手も悪人ではあるまい、なんらかの意思のすれ違いが起こっているはずだ。そして、これは気をつけていたら無くせそうだとも思う。ざっくりいうと、文脈(場の状況)と相手との関係性、そして「互酬性」を意識して他人にやさしくしていれば、そういう善意の空回りのような悲しさが起こらないのでは、と思う。

ものごとの文脈を見極める

文脈、というのはつまり「その親切をはたらくのにふさわしい状況であったか」ということだ。例えば、相手が明らかに困っているとか体調不良とか、助けを求めてきたとか。基本的になんらかのシグナルが発せられている場合には、すぐに自分にできることを探して行動をするのがいいと思う。そうでない場合、相手のアラや苦節からの抜け道が自分に見えているように思っても、本当に助けが必要なのかを考える。相手は自分と同じ景色を見て同じ道を歩んでいるのではないから。それでも行動を起こした方がいいと思ったら、わたしなら「あなたの行動について、状況について、アドバイスがあるんだけど言ってもいいかな?」と許可を求める。とにかく相手のエリアに立ち入るときは、相手の主体性を尊重することでいい関係が保たれると思う。

世は令和、いろんな立場の人が声を出して語り始めている。それに伴って、世代や経済状況や宗教や政治観の違いから生まれるすれ違いが目に見えやすくなってもいる。「親切が実は迷惑だと思われていた」と知ったら、ショックを受けるのは当たり前だ。自分の人格が否定されたような気にすらなる。でもそんな時にまず、相手の都合はどうだったのか考えてなかったな、と思い到れば、未来の行動は変えられるはずだ。相手のためを思ってやってるのだから、というおこがましさを、立場が弱い人間が我慢すべきではない。

「年上の言うことは聞くものだ」という格言には、根拠が付随していない。もし「なぜなら…」で文章が途切れていたら、なんと続けたらよいのだろう。わたしならどうするかな、「長く生きるほど経験と知識がたまるので予測能力の精度が上がり失敗をする可能性が低いだろうから」かな。そんな時代が、あったのだ。世は令和、めまぐるしい変化の時代に溺れて、世代が引き裂かれてゆく。

わたしはお節介焼きは基本いい人だと思っている。共感性が強かったり、家族や近隣を大事にする人、経済合理性からこぼれ落ちたものにも目を向け手を差し伸べられる人。出身地も考え方もまるっきり違う人間が密集して生きる現代で、どうやって人に優しくしていけばいいんだろうか。

相手の関係性を自覚する

自分と相手の関係性が今どれくらいの親密さにあるのか、これを誤解して起こる問題は多い。パーソナルスペースやプライバシーの基準は、世代だけでなく個人個人でかなり差があるからだ。相手にお節介をやくようなタイプの人間は、他人から自分に向けられた行為を不快に思いづらいのかもしれない。だから自分の身に当てはめたときに嬉しいことを相手にもしてしまうのだろう。「相手の気持ちになって考えてみましょう」という教えは、本心を隠す日本的習慣と相まって、本当に誤解を生みやすい。せめて「相手の表情や姿勢や声調から、本当はどう思っているのか観察してみましょう」がいいい。メラビアンの法則* を義務教育と社会人大学と文化センターあたりで学べれば、もうちょっと対話が促進されるのではないかと思う。

*アルバート・メラビアンが行った実験:感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたとき、話の内容などの言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合で相手に受信された。

Wikipedia『メラビアンの法則』(要約)

(*つまり、めちゃめちゃ悲しそうな顔と声で「今日は楽しかったです」と言った場合、表情を信じるか言葉を信じるかと言ったらかなりの割合で表情からのメッセージを受け取る、という話)

 

関係性がうまく把握できていないと、相手に不安を抱かせ、及び腰にさせてしまう。

とある男の友人が、「マッチングアプリでの会話がうまくいかない」と言う。見た目は清潔そうで、人当たりもよさそう、そして実際にいい人である。ただメッセージを見せてもらったら、「こんにちは〜!」という初手のメッセージの次に、相手のプロフィールに関して13行もある重厚な文章を叩きつけていた。「うん…これは、相手はびっくりして引いちゃうよね、関係性が何もできていないのにこれだけ分厚いコミュニケーションをすると、不安になるんだよ」と教えると、混乱した様子だった。相手がなぜそれで不安になるのか分からないらしい。

「あなた今まだ、相手にとって”知らない男性” だからね。人はね、不安なものなんだよ。一歩一歩、”ここまで踏み進めても大丈夫なんだな” って確認しながら関係性をつくるんだよ。とくに実体を感じられないマッチングアプリなんかだと、送る文章のイメージで人柄が想像されてしまう。あなたは相手のプロフィールを読んでたくさんのことを感じて、それを伝えたい衝動が沸いたんだろうけど、『めちゃめちゃ観察されてて怖い、めちゃめちゃ押してきてて怖い、わたしにもこの分量の返答を期待してそうで怖い、あと真面目すぎるノリが怖い』って思わせてるんじゃないかな」そう言うと、彼は頭を抱えていた。(わたしはそれを見ながら、この人は悩む時に本当に頭を抱えるんだな、と思った。)

「そっか、我慢しないといけないのか…。」

「うんそうだね、コミュニケーションツールの特性上、あなたの今のやり方だとうまく出会えないと思う。”我慢” って思っていることがあまりにもストレスなんだったら、そもそもそのプラットフォームがあってないんじゃないかな。哲学対話の会とかに行ったら?」

「でも、こういう可愛い子に会いたいんだよな…哲学の会にいる女の子、気が強そうで怖くて。」

「なら、知らん。」

「そんなこと言うなよ…。」

「うるせえ、じゃあ肉体の魅力を高めろ、その女の子がその癖の強いメッセージにも返事をしたくなるくらいの肉体美を手に入れろ」

「うう…」

「世の中市場なんじゃよ…マーケティングなんじゃよ…」

「辛いンゴw」

「もう、なんJに帰りたまえよ。」

話がずいぶんと外れてしまったけれど、相手との関係性ができていないと自分の好意の行動が、完全に裏目にでてしまうわけだ。

「人は不安なもの」というのは私が26歳の時に聞いた格言だ。この言葉を大事にしながら生きている。なぜならわたし自身も人との関係性の作りかたが一般的ではないというか、元気なときに相手が興味を引く話をしていたらついつい距離を詰めてしまうし、言語で議論するのも好きだからつい小難しい話を初対面の人に吹っかけたりする。もちろんそれでも大丈夫なコミュニティ=文脈というのは確かに存在していて、そういう寛容さと突飛さと我の強さでできたカオス環境でなんとか生き延びてきている。

互酬性≒ギブ&テイク、成り立たない交換が人間関係のほころび

互酬性という言葉を調べてみると、以下のような説明がしてある。

ごしゅう‐せい【互酬性】
・個人が他人を助ければ、必ず相手もこれに応えてくれるという期待によって成立する相互作用をいう文化人類学の用語。

・行為者Aが行為者Bに対して報酬となる財や資源を提供すれば,BにはAに対して返報する義務が生じ,その義務を履行しなければならない。これは互酬性(互恵性)の原理として知られる。

コトバンク

つまり、「もらったら返さないといけない」「あげたら、返してもらってしかるべき」という考えのことだ。

どんな大学でも人類学講義の初めの方にでてくる「贈与論」では、ものをあげる・もらうことが人間社会を形成する大事な要素である、ということを解いている。お金がある社会でもない社会でもそれは同じだ。

(人類学的な互酬性についてざっくり知りたい方は、ぜひこちらのサイト(大阪大学の池田光穂先生のサイト)をご覧ください。)

こういう考え方から、よかれと思って自発的に行った親切を眺めてみる。人や社会に何かの行為を働くという事は、そこから自分が何かを得られることで、そこ動機が生まれていると考えられる。金銭もものも対価として支払われないようなボランティアがあったとして、人材を募集する側が申し訳ないと言う必要はない。そこに人が集まるとしたら、応募者はただの自己犠牲ではない何らかの報酬を自発的に見いだすことができると想定できるから。人が集まらなかったとしたらそこで交換が成立しなかったと言うだけのことだ。そういうところに集まる人にとっては、経験から得られる学びとか履歴書にかけそうな活動以前に「相手が喜んでくれている事実」が既にリワード/リターン/報酬になっている場合がある。あるいは「他人に優しくしなさい」と言われて育った人が、親切を働くことで母親に褒められている気分になる、その幸福感もリワードかもしれない。とにかく何らかの社会貢献を自発的に行う人間には利他心があるけれども、利他と言う言葉の内側には「他人に親切にすることで自分が嬉しくなる」とか「何らかの負い目がなくなる」という利己的動機がちゃんと存在している。

「他人のことを思って行った親切は、結局自分が嬉しくなるため」と思っておくと、常についつい喜ばれないお節介を焼いてしまうような人間は、「自分が嬉しくなりたい一心で他人に親切を装った傲慢さを押し付けていないか」と自問することができるようになる。

正直ずっとこういうことを考えていると、ある程度自分を責めることになるのでしんどい。でも結局自分が何の考えなしに行動しても社会に存在する道筋をするりと進めるわけでは無いのだから、自覚的に注意深く自分を作り替えていくしかない。他人に優しくありたい、その方が自分の情けなさを晒しても優しくしてくれる人たちに申し訳なく思わずに受け止めることができる気がするから。

 

文脈と関係性と互酬性、その3つを利他心から行動するときのチェックリストとして置いておきたい。そういう意味では、大阪のおばちゃんの「あめちゃん」はよくできていると思う。挨拶や天気の話をその場限りで交わしたのみの他人からの贈与だったとしても、ギリギリ誰でも受け取り可能な親密さに見えるからだ。飴玉くらいならお返しをする必要も特に感じないし、無償で何かをあげる、というおばちゃんの優しさは伝わる。そして処遇も簡単、ポケットにしまって置いて忘れてしまえるくらいの存在だ。他人にもらった食べ物が気持ち悪く感じる人もいるだろうし、キャンディを食べない人もいるだろうけど、食べるのもあげるのも捨てるのもあまり大変ではない。食べなくても、たまたま隣の席だったおばちゃんと一期一会の交流を果たした証拠としてのシンボルとして成立するのが「あめちゃん」なのだろう。

 

基本は自分の幸せを行動の指針にして “自己犠牲” はしない、ちょっとの譲り合いを繰り返すことで少し社会にいいことをする、大きな社会貢献がしたければ就職するなり仕組みをつくって仕事にしてしまう、そのくらいのスタンスで生きた方が「なんで、自分はこんなにもしてあげているのにありがたさを感じてくれない」とか「自分にはだれも親切にしてくれない」とか「自分はこんなにたくさんの社会貢献をしているのにアイツは何にもせずぐうたら楽しそうにしている」とか思わなくてすむ。

『メンタルが強い人は「比べない」「期待しない」「批判しない」の3つが共通してる』っていうツイートが今日流れてきたところから、そういう考えに至りました。