自分を直したいと思っている、元の姿はないけれど

 

『我が道をゆく』ができない。変わってるね、個性的だね、という言葉をいただく割には。ここを突破できたら楽になるしもっと確かな居場所も確保できる、そう思って1年経つが、まだかかりそうだ。

普段は、わたしのことを変だと言わないし思いもしないくらいには奇妙な人たちの中で生きることができている。でも「変わってますね」という、誰の得にもならない言葉をかける人間に遭遇する機会はゼロではなく、その度に、あぁまたか、と思う。一体どういうつもりでそんな褒め言葉でもないことを言うんだろう。近づくな、という警句だろうか。変わってると思ったから変わってると口に出すほど思考が直通なんだろうか。大した意図はないんだろうが、こっちは色々と考えてしまう。浅ましさか奥ゆかしさか、どっちでもないのか。なんにせよ、自分が想定する “普通” をふるまっていたら、横から「その “普通” は我々の “普通” ではない」と否定される、そのことの攻撃性を想像できない程度には、普通になれる人なんだろう。

「自分とは違う」「好感と安心を感じるわけではない」と明言されているに等しく響くその言葉は、たいてい人生の一瞬しか共有しないような類の人から発せられるが、そんな一瞬の人にも嫌われたくない、と思ってしまう。(「変わっている人好きです!」とのたまう人は、逆に警戒する。なにか平均化された基準に比較され、逸脱しているとみなされ、それゆえに愛されるのは気持ち悪い。)

友人は呆れて「そんな一見優しさに見えるような、おこがましさは捨てなさい。そんな人のことは気にしなくていい。」と言うが、気にしない、というのはどうやって達成するものなんだろうか。日々行き交うあの人この人はみな、勝手に流れ込んでくる感覚感情想像を自分の制御下に置いて生きているというのか。 あるいは「気にしすぎだよ、そんなこと考えてないって」と言う人もいるが、その発言が出てくるはその人の過去の経験が「変だよ」スピーカーによって痛めつけられたことがないからに見える。とにかく、真偽はわからないが警戒感をもって気にしてしまう。どうすればそのスイッチをオフにできるのか、小池龍之介『考えない練習』はじめ色々と読んでみたが、わからない。この本では、「考えないために五感を研ぎ澄ませてみる」が一つの対策として挙げられているが、油断したらすぐにふにゃっとする身体の制御もしながら既に開きっぱなしの感覚の制御もするなんて忙しいこと、わたしにはできない。

都市の片隅にある、大衆の注目を集めないくらいの楽しい吹き溜りはちょうどいい。でも一歩、社会という千錯万綜で参差錯落な場所に踏み出したとき、わたしは普通にも特別にもなれない。わたしは「普通」になりたいのにわたしの「心地よい」は「普通」ではない。その結果、大勢のひとがいる場所で心地よくなくなる。

気づいたら、無意識のうちにわたしは周りを気にしながら肩をすぼめて生きている。ここ一年で「生きるなら前向きに生きたほうがコスパいい」と思いなおして色々と認知の歪みをとる試みをしてきた。だからだいぶんと健全な感謝と安らぎと喜びを生活の基本に据えて暮らすことができるようになった。この調子でもっと気楽にいきたいから「誰にも嫌な思いをさせたくない」と考えすぎることへの対策を強化したい。

べつに好きで変わっているわけでも個性的なわけでもない。普通になりたいと思い、常識をもって社会の一員であろうと日々気を付けて振る舞っているつもりでいる。そして、社会的価値を生み出すほどの風変わりさも持ち合わせていない。突き抜けている人の側からみたら、わたしは本当に凡庸に見えるだろう。大勢の人がいると言うことはそれぞれの個性の違いの最小公倍数で計算した「理解できるシグナル」でコミュニケーションを取らなければならない。ついでに、そこに役割を載せて。

ああ、この人は20代前半の女性で店員だから、制服をきて、手を前で組み、客引き用のトーンで挨拶をし、誰でも迎え入れるという表情をしている。そう確認できると大勢の人は安心する。それが著しくズレていると、不安になり、信頼性が失われる。大勢の性格性別思考志向が全部違う人が行き交う場所では、信頼性と安心感があって初めて存在を許されるようなところがある。不潔・異臭・攻撃性・堕落・不機嫌さ・不健康さ…その他何らかの不穏な空気を纏った人間は、群衆から警戒の目で見られる。それに気づかないくらいに狂ってしまえたら自分の強固な世界の中で幸せを得られるのだろうが。

わたしには人生の一瞬しか共有しないような人にも、そんな不安感や不審感を与えてしまうことへの恐れがあって、きっとそれは他者の同一性への安心感を損ねたことで攻撃された経験があるからだと思う。人は記憶の中の経験と感情で、今目の前にある現実を理解する。

「自己肯定感が低すぎる」という言葉には、実際そうかもしれないな、と同意する。でもより正確にいうと「自己の加害性に怯えている」に近いかもしれない。わたしはこれを、恋愛関係・性愛関係がうまくいかない男性に多い拗らせ方だと思っている。自分をキモくて許容されない、存在するだけで他者に対して加害性のある人間だという前提で捉えてしまうような傾向。人々が心理的安全性を持つようなシグナルを発する見た目や振る舞いを学び、また自分を好意的に見るようなコミュニティを探すことなく、自分の内面に引き篭もったまま苦しんでしまう。自分にもそんな要素は確かにあった。これが一番ひどかったのは高校〜大学1年生くらいだろうか。

そういえば大学時代の咀嚼が全然すんでいない。ここをときほぐせば何か見えてくるのかもしれない。