「モヤモヤ」をゆっくり吟味して、その違和感に言葉をつける

 

最近、意識的に「ゆっくりする」ようにして暮らしてきた。いろんなことにモヤモヤを感じ、積極的に行動できなくなっていたのでその原因を探りたかったのだ。最低限の生活費に足りるように労働をし、あとはなるべくぼーっと、へらへらとしている。いま、大学時代よりもずっとモラトリアムらしい。

昔から抱えていた苦痛や不満や恐怖や怒り、将来への不安やコンプレックスをひとつひとつ消化している段階なのだろう。十数年ぶりに解凍される記憶によって、毎日のように数筋の涙がでる。でもそれは押し込めていたものが溶けていくような感覚で、悪い気持ちではない。いわゆる “未処理の感情” というのが溜まり溜まっていたためか、大学時代とい大学院時代に1回ずつ心を半壊にした。コロナ禍でまた不安が増大し、大事な人との関係がいくつか壊れた。だから、「これは今後のためにならない」と自分の内側の改善に取り組み出してから1年がすぎる。そうして、ひとつひとつの出来事と記憶を吟味することによって違和感を違和感のまま放置しない習慣が身につき、わたしはずいぶんと楽になった。

思えば、走り続けてきた。時間を無駄にしないように、目の前にある作業を効率化したり時にはすっとばして、人よりも多く道のりを進んできたと思う。ただし、その道は蛇行しいくつもの岐路を経て、堂々巡りをしている。めざす先がなかったのだ。見えていた「できるだけ上の学歴へ」「ちゃんとした大人になる」「まっとうに正解を辿る」というイメージは、ただ茫漠とした霧の上に照射された虚像だった。

昨年知り合った同い年の女性は、二人の子供を育てながら料理家として週末マルシェに出店をして生計を立てており、その前はフリーダイビングをするために小笠原諸島に住んでいた。誰にも臆することなく、分け隔てなく接し、ちゃんと自分の好き嫌いを他人に不快感を与えないように表明できる。まちがっていると思ったら、その理由を人を傷つけることなく伝えることができる。わたしはぼんやりと、「羨ましい」とおもった。彼女になりたいわけではない、でもあまりにも眩しすぎて、わたしが持っていないものを全部獲得しているように見えた。

わたしは何がやりたいんだっけ、と深夜、凍ったヨーグルトにスプーンを突き立てながら考える。そういえば、いろんなことをゆっくり考える時間がこれまでなかった。いや、時間はあったのだけど、ゆっくり考えを巡らせることを軽視して、そのかわりに出来る限りの経験を詰め込もうとした。それゆえ、知見の言語化と感情の知覚が遅れたのだろうと思う。

わたしは疲れやストレスを知覚するのが下手だ。感情でかなり思考も身体も揺らぐのに、それが他の人に比べて度合いが大きいことに気付いてもいなかった。卒業論文を書くとき、関西から東京にインターンに行ったとき、いきなりダウンする心と体がただ理解できなくてうろたえていた。

高校まではとにかくいい成績をとって、順位の上に上り詰めること、そして進路を考えたときに獣医になりたいと漠然と思っていて、それを目指した受験勉強をしていた。それが叶わず、目の前が白紙に戻った大学時代はとにかく幅広く社会を知りたくてアルバイトや旅やインターンや勉強会やイベント参加をした。授業も興味を引くものを端から登録し、パズルのように組んだ時間割を手元に、複数のキャンパスの授業を移動した。大学院の授業の聴講までしていた。今思うとあんな何も分かっていない学部生をよく受け入れてくれたと思う。

気付いたらわたしは、雑談が得意なだけの人になっていた。いろんなことを知っていて面白い話ができる。一つのことを深くは知らないから専門的なプロジェクトができない。就職もせずにフラフラと言語を使った仕事を紹介されるがままにこなし、なんとなく語学関連のプロになりかけていたが、ずっとなにかが喉につっかかっていた。でもそれについて覗き込もうとすると苦しくて、その招待を分からないままに目の前に来ることをこなしつづけて考えないようにしていた。

色々観察してきたから嗅覚ははたらくようになり、自分の身に起こりそうな大きな失敗については直感的に回避することができるようになった。それは、多種多様なおじさんとかマルチ商法とか陰謀論とか過激なオーガニックとか、その他意識が高い顔をして搾取を試みるきな臭い団体各種だ。新卒就職もせずにふらふらしているといろんな人が近づいてくる。いつも寸前のところでなんらかの違和感を感じとり、それらを回避した。そしてそれはいつも正しかった。

でもずっと自分の頭脳も技能もふるまいも容姿も、何にも自信が持てず、それゆえ自主的な発言や主体的な企画などができない。大学で論文やエッセイを書かなければならないとき、トピックすら自分で決められない。そして、自分でもなぜ判断や意思決定ができないのか分からなかった。

今は「やりたいことはあるけどなぜか動けない、なんかモヤモヤする」と感じてきたところに言葉をつけられる。自責と劣等感でがんじがらめになっており他者の顔色を伺って正解を探していたからだ。よくちまたで「自己肯定感が低い」と括られるアレだ。そういう自己啓発的な文章もたくさん読んだけれど、そもそも自分の内心のほうをゆっくり吟味していなかったのだから、自分がそれに該当するとは気づけなかった

なんだかモヤモヤするという感覚は、信じた方がいいと思っている。「この偉い人はこう言っているけど、でも何だか納得できない。」と感じるときは、あなたの立場からみてその権力者は正しくないのだ。その正体がはっきりと見えなくても、自分が今までの経験を総動員して意識下で発している違和感は、だいたい正しい危険察知の嗅覚、と言ってもいいと思う。なんで今自分はモヤモヤしているんだろうか、ということを考えていくと、自分が正しいと思えないものを押し付けられていたり、実はハラスメントにあたる行為を受けていたりする。

哲学者ヴィトゲンシュタインの言葉として『語り得ぬものについては沈黙しなければならない』というものがある。わたしも、確信の持てないまま虚飾の言葉で自分を表現する必要はないと思うけれど、「言葉にはなってないけれどここに何かがある」という実感を握りしめ、そこに当てはまる言葉をメディアや芸術や学問や旅、ヨガやカウンセリングや瞑想などの中から見つけ出そうとすればいい。違和感を吟味する時間が、人を豊かにしてくれる。

インターネットでうまいこと言った人間がバズり、発言力を増していく時代において、言葉ならざるものは軽視されがちだけど、そこに耳をすませることが自分にとって適した道に導いてくれる。

いまわたしはとても生きやすいのだけど、一般的に言って正しいというか大多数にとって正解となりうるような安パイからは完全に外れてしまっている。それゆえいままでいろんな人からアドバイスを受けてきた。「一回は就職したほうがいいよ。」わたしのことを心配し、良かれと思って言ってくれたのだ。でも「なんかイヤな気持ちになる」と積極的に動けず、そのままずるずると就職を選択しないままできた。就職を勧めてくれた人たちの多くとは、彼らの心配に応えられない気まずさと怠惰にみられる不安で疎遠になったりした。消極的に就職しないまま生きる理由をきちんと説明できていたら、当時心配してくれた人たちに対してもっと誠実だったな、と思う。

自分が何に違和感を持つのか、その正体はなにか、それらを明らかにする技術は自分のためにも人のためにも必要だ。丁寧に柔らかく時間をかけて、自分のモヤモヤの外郭を知覚し、言語化することで流れだす運命や関係性がきっとあるから。

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