友人讃歌

 

良い友達、いや、イケている友達が複数いる。

「あなたの良いところはどこですか」という新卒就活のエントリーシートにたまに見る質問を今後の人生で見ることがあったとしたら、わたしはこう答えると思う。良い友達がいるということは、自分自身の資質として自慢できる。

お人好しで、政治的茶番には冷ややかで、ことばのセンスを信頼できて、忌憚ない意見を言い合えて、それでいて思わぬポンコツさを持ち合わせている。そしてなんらかの挫折経験がある。若くてもちょっと枯れた雰囲気があって、それが魅力的な香りを漂わせる。

なにかをめちゃくちゃ一生懸命頑張ったけど思い描く場所に行けなかった人が好きだ。失敗したという事実に同類項を感じて安心したり、自分より下に見るから、というわけではない。そこでへし折れて世の中を馬鹿にして腐っておらず、再起して手持ちの資材を眺め、その届く範囲で必死に生きている姿があまりにも尊いのだ。その中にも「人生はクソ、だからせめて楽しく」と思っている人と「それでも人生は良いものだから、腐らず楽しく」と思っている2種類がいる。どちらにせよ生活と文化感度が高くていつもいつも様々なことを教えてもらうばかりだ。そんなだから、挫折経験がある人のほうが人間として信頼が置けるし面白い、という仮説を胸に、人との関係構築を試みるまでになっている。

大学受験浪人しても結局希望のところに入れなかった、突然の病気でスポーツ選手になれなかった、親が早くに亡くなった、いろんな挫折の形がある。それでも毎日を社会の中に立って生きている人たちは、まず他人の痛みに対して優しいし根気強い。『自分も困ったから』という理由で助けてくれる。功利主義の正反対って、痛みへの共感なのではないか。もちろん他人の痛みの質そのものは分からない。将来的には脳に与える人工的刺激で他人の感覚そのものを追体験できるようになったりもするのだろう。そんな未来が来ようとも来なかろうとも、今大事なのは他人が今痛みを感じていることは理解できることであり、そう言う時にどうしてほしいかも想像できるということだ。もっと勇気がある人は、「どうしてほしい?」と選択肢をくれたりする。そういう人をわたしは尊敬し、一生の指針として心の神棚にあげる。

最近、”友達” の定義は『自分が心を開けている人』だな、と思い至った。心に形があるとしたらおそらく立体だからどっち側をどれくらいどういう形で開けているのかは相手によるけれど、でも感情を表情やことばに載せて出すことに躊躇しなくていい関係は、”友達” であると思う。だからわたしの中では友達兼恩師も友達兼恋人も成立する。

余談だが、わたしは友愛と性愛をあまり切り分けない性分なのだと思う。あるいは自分の身体と性愛の関連性を自覚しきれていない。友達枠に入った人に対しては、同性でも異性でも軽率に身体距離が近くなる。自分ではこの症状を「わたしが懐く」と表している。自分の振る舞いを犬か何かと同列だと思っているし、それゆえ友達だと思っている人にはわたしのことを懐いてくる犬くらいに思っておいてほしい。もちろん身体距離が近いのを嫌がる人はいるので、気をつけなければならないのだけど。特に日本だと身体距離、パーソナルスペースが遠い人が多いのでややこしい。ヨーロッパに生まれたらよかった。

ちなみに余談2だが、前々から “セフレ” ということばに一言ある。それはセックス目的のご都合フレンド感が強すぎて悲しい。それはわたしの定義でいう友達ではない。友愛に重きを置きながら性愛の所在を明確にしておきたい場合は “フレンド+” くらいに呼んでおけばいいのではないか。ことばの使い方で規定する枠は変わるが、そこに関する感覚が一般とかけ離れている場合、現実に流布していることばはあまりにも不都合だ。

また話が飛んだ。とにかく、年齢にしては大人びている友人が多い。年下であってもそうだ。そもそも達観しているくらいじゃないとわたしの奇行を傍観する余裕はないのかもしれない。先日30歳にもなって、風雨の折にはしゃいで土手を転がった。一緒にいた友達は「ちょっと、一緒にいて恥ずかしいよ」などと言わず、ニヤニヤしながら写真を撮っていた。しかしこういう時に参加するような人は親密な友人の中にはいない。なぜかそういう身体感覚の喜びに誘ったとしても、断る良識を持っている。雨に濡れた下草はこんなに気持ちいいのに、と思いながらわたしは土手を転がる。わたしは行き過ぎる自分にアクセルをかける人とつるんでしまうと一気に地獄に落ちるから、無意識に良識のある人たちの側にいるのかもしれない。あるいはわたしの行動が相手を醒めさせているとすると、そういう役割は結構光栄なものだ。

痛みを知るが故に面白く優しい友人に囲まれてほくほくとしている一方で、基本的にわたしは、すくすくまっすぐ育ち小難しく後ろ暗いことを考えすぎず好きに生きられる社会のほうがいいと考えている。それは個人の意思と主体性が尊重され、かつ個人の不安感が低い社会だと示す指標、社会の成熟の指標にすらなると思う。だから科学技術文化の力で自分が自分であることが好き、好きなことが好き!と邁進できる人がどんどん増えたらいいなと思うし、そういう環境の守人のひとりになれたら嬉しい。

そしてそんな社会の発達が見られる頃まだ生きているとしたら、犬みたいに懐いてきて風雨に喜び裸足で走り回る友人ができた時に、一通り写真を撮ったあと心配顔でハンドタオルを渡せるくらいには自分も成熟していたいものだ。