不安になっては口にフォークを運び

 

今日もまた、深夜になってやっと意を決して机に向かうことができた。やることは溜まりに溜まっている。

ブログの方向性思案、写真展の計画、写真zineの作成、ことばのフィクション表現の練習、毎日やると決めたスケッチ。あとは食いつなぐための仕事。

どれも『やらなければならないこと』だと思っているけれど、金稼ぎの仕事以外、どれも『やらないと詰むこと』ではない。そもそもわたしが何も新しく始めなくても世界は変わらず動いていくし、どこかの誰かがイノベーティブで社会を打つ。そう言っているうちに、ほら、あっちでも。

腰が重い。やりたくないことは何もやっていないはずなのに。全部心を頭に通して確定させた『やりたいこと』のはずなのに。やりたいこと、ってなんなんだろう。楽しくて待ち遠しくて勝手に手が動くものごとのことじゃないんだろうか。『やりたいこと』にはたくさんの『やるべきこと』が付随して、その前でわたしは震え、突然衣替えを始めたり、首の産毛に光脱毛器を当てたり、お腹も空いていないのにキッチンに立ったりしかできない。

お腹は空いていないのに、飢餓感を感じる。それは、焦燥感とも呼べるものなのかもしれない。ああ、この感覚知ってる。高校時代の深夜もよく苦しくなるまで食べて、胃の痛みや吐き気に一種の安堵感を覚えていた。食べていると少なくとも何かしている気になるし、咀嚼した食べ物が喉奥を通り胃に落ちていく触覚にアンテナを向け、意識を身体感覚で満たしていた。今思うと、身体の表面を傷つけるのを避けるための代替案だったのかもしれない。身体上に目に暴力的な赤が走るのを見つけた他人に心配をかけることなくひっそり痛みを味わうため、編み出した方法のような気がする。

『エモーショナルイーティング』という名前がついている現象だということは理解している。多分これが過ぎると、過食症・拒食症になるのだろう。わたしは、過ぎるところまでいけない。胃が苦しくなったらもうそれ以上食べられないで、あとは空を仰ぐのみだ。せいぜいスプーン5杯分くらいを吐き戻すしかできない。結局何事においても突破はできないのだろう、30歳までのうのうと生きて、毎日弱音をはいている。まっとうさから逸脱し切れるわけでもなく、ずっと茫漠と苦しい。

机に向かう前、床に開きっぱなしになっている本が目に入り、それをとりあえず手に取って、机に置いてみる。それでまた少し何かした気になる。やること、を目の前に、また『何のために?』と問い直す。一度GOを出したものに関しては疑わずにそのまま計画どおり最後までやるのが、家庭でも企業でも歯医者の治療でも同じだと思うんだけど、それは分かっているんだけど、どうしてわたしの頭は言うことを聞かないんだろうか。頭が、何の言うことを聞かないんだろう?

自分で自分の意思を自覚し、その計画を立ててやり通したことが人生において一度もない。あまりにも長い間、自分のための物事に取り組まないまま過ごしてしまった。だから目標の立て方も計画の立て方も本を読んで知っているけどそれを実行に移すことが自分でできない。そんな人間がいきなり自己表現を試みるのは、ボルダリングの体験入店もしないままスポーツクライミングの会場に来てしまったような無茶にも思える。そう考えると、目標計画ができている、とも豪語できないのかもしれない。「楽しさを知る」だけを目的に十分小さく始めたつもりが、実は巨大迷路だったのだから。

思い描くイメージは、きらめきがある方向に恐怖の分厚いぶよぶよが立ちはだかっていて、それに突入していっても全然身体が動かない、というものだ。でも実は突入する前の何もない道で幻覚を見せられているだけだと判明する。そういう想像に包まれたまま、不快な気分で深夜、食パンを胃に入れる。食パンは意外とカロリーが高いんだぞ。

このとおり目標を持って遂行するのは苦手だが、なんの目標もなく何かをすることも他の人間に違わず苦手だ。方向も結果の予測も立たないまま、現時点で無駄に見えることをし続けるって不安でしかない。今この瞬間の行為が楽しいからやっている、それは非日常エンタメとしては楽しいだろうけど、週に2日の休日にやるからいいんであって人生かけてそれをやるのって、なにか自意識に存在する壮大なものとの格闘になってくる。

このブログったって、書いて何になるものでもない。目的をもって戦略的にやっているものでもない。楽しいことは楽しい。続けていると思わぬ検索流入があったりと、予想もつかない発見へと自分を導いてくれる。それにとりあえず認知行動療法的な役割があるから存在意義は辛うじて保たれているし、3年分のサーバー費を払ってしまったという理由もあってコンスタントに書き続けられている。月に10記事を達成し続けることもゲーム的な快感になってきた。浮かんできたことをそのまま書けばいいよ、でも自分のより生きやすいだろう場所を作りたいならちょっとは戦略的になってもいいんじゃない、この二つの葛藤に喘ぎながら、カテゴリーもよく分からない文章を打ち込み続ける。

人間の営為の優先順位は「食うことに資するか」あるいは「生命維持に物理的に役立つか」が第一にくることが多い。多くの人の思考回路の中はそうなっているだろう。たまに本気でそこがバグっている人がいて、「快感かどうか」を優先する。あるいは「よくわかんないけど今自分はこれをしなければ気が済まない」と論的証拠のない直感を確信する。そういうのが芸術家とか革命家とかあるいは大犯罪者として歴史に名を馳せる。

わたしにもひょっとしたらそういう気が備わっていたのかもしれないが、至極まっとうな両親に育てられたので、線路の上は歩けないものの垂直に断走することもできない。人間の子供が狼に育てられれば狼のように振る舞うし、狼も躾ればそれなりに人里になじんだ振る舞いをする。人か狼か、自分の正体はわからないけれど人に育てられたので人だと思っている。だから人を襲わないように生きたいし、人の役に立ちたい。でも集団に最適化された場所では生きていけない、抑圧を感じると消えたくなる。

自分が生きると決めて、生きるからには将来があるはずだという前提に立って、自分の将来をいいものにしようと思った。多分それが自我のめばえというやつだ。だからこうやって何が正解か分からない毎日を送って、時に自分で作り出した不安に押しつぶされそうになって食べ物を喉奥に詰め込んでしまう。

この文章は、自分の感覚を翻訳するつもりで書いたけれど、たぶん、何を言っているか分からないだろう。

でもこうやって、今まで口蓋の中で潰れていた言葉を少しずつそのまま出せるようになったら、いつか渇望に似た焦燥に幻惑されて胃を痛めることもなくなるのかもしれない。