「一周回って性格がいい」人が好き


わたしは性格が悪い。
だからいい人であろうと心がけている。

性格が悪い、とはどういうことか。
つまり、すぐに「こんなしょうもない仕事したくないな」とかとか「わたしが頑張らなくても誰かがなんとかするでしょ」とか思ってしまう。

この性格の悪さとは基本的に怠惰という質のものであって、「アイツは幸せそうだから邪魔してやれ」とか「人を傷つけるのが楽しい」とかそういう主体的な攻撃性のあるものではない。

もちろん、自分が自分のありのままでいた時にいじめられたり軽んじられた経験があるから、それが影響しているのは否めない。他人にいったん心底失望したことがあるという経験は、紛れもなく思考回路に影を落としているを。だからこそ「どうして自分をバカにするような人間を尊重しなければならないんだ。」「どうして自分を解しないやつらに与しないといけないんだ」と思うこともあるが、しかしそれは周り回って自分の心情を穏やかでいられなくする。

軽率に高圧的な態度で接してくるとかこちらの言葉を解しようとしないのに攻撃的な言葉を吐く人間に相対した時、わたしは「なんらかの事情があって他人に攻撃的にならないと自我をうまく保てないんだ、かわいそうに」と思うことにしている。自分なりに他者をバカにしないで済むギリギリの処世術だ。もっと人間性が深まれば、何も思わないで済むくらいの悟りを見出すこともできるのかもしれない。

ここでひとつ恥ずかしさを圧して告白すると、わたしには他人の不出来をバカにする傾向がある。油断すると「こんなに適当なメッセージを書いてよこすなんて浅はかな」だとか「えっ、こんな常識的なことも知らないの」だとか考えてしまうし、それが身体ジェスチャーに現れてしまう。

これは努力することが善である、新しい知識を吸収することが善である、という価値観が自分の倫理観に強い影響を持っているからだろうな、と理解している。でも、人間には様々な背景を持っている人がいて、わたしの伺い知らないところで各々が努力し、苦労している。それを思慮に入れずに自分に見えている部分だけで相手を貶めるような思考回路がイヤで、そういう方向に自分が突っ走りそうになるのを注意深く押し留めながら生きている。

わたしは 「食べれる」だとかの “ら抜き言葉” が嫌いで、それゆえそういう言葉づかいをする人に対して潔癖な反応をしてしまうことがある。確かにそれは正しくない言葉の使い方かもしれないけれど、言語というのは常に変化するものだし、その人が得意なことをわたしは不得意かもしれないし、わたしはその不得意においてその人にバカにされたくない。だから、わたしもその人の小さな瑕疵をバカにすべきではない。

往々にして、他人をバカにする人は、自分がバカにされることを恐れている。人のいたらなさを嘲笑うとき、自分が同じ失敗をして嘲笑われることに不安を感じている。そうすると実際自分がどうしようもない失敗をしでかしたときに自責に苦しんで立ち直れないかもしれない。他人に欠点があったとしてもそれを理解しようとしたりそのカバー方法を一緒に考える姿勢は、自分自身に寛容になることにもつながる。

また、劣等感にがんじがらめにされていると怒りに満ちた思考に入り込みやすい。たとえば身長が高い方がいいという価値観を強く内面化して、そこに至らない自分に鬱屈とした感情を持っている人がいるとする。そうすると「わたしは身長が170cmです。」という単なる事実伝達のことばを「身長が170cmない自分をバカにしている!」と解釈することになったりする。それだと自分も他人も不幸だ。世界全体の幸せの総量の足をひっぱっている。

そういう理由で、自分には性格のひん曲がったところがあるのを自覚しつつ、自分を生きやすくするために他人に優しくしたい、そう思っている。

わたしの友人たちにも同じように、自分の偏見や諧謔性に自覚的であろうとする傾向が見られ、そういう部分があるからわたしは彼らを特別に好意的に見ている。人間だれしもズルさとか怠惰さとかを持ち合わせているものだけれど、それが顔を出しがちな場面で理性をフル回転にしている人たちは、信頼できる。そしてその努力というのは、はたで見ていてわかるのだ。 会話の端端にも、自分をよく理解するためにメタ認知を欠かさず、失敗をしたらそれを受け入れ、なんとか少しでもよりよくあろうとする。

数千年前、ギリシャでプラトンが追求しようとした “善” って、こういう人たちの姿勢のことなんじゃないかな、それくらい尊いものに見える。

自分の欠点に常に自覚的であるということにはかなりの思考力を要するし、エネルギー負荷もかなり高い。だからそれをできる人というのはそんなに多くないのだと思う。インテリだとかエリートだとか、そういう属性はあまり関係ない。どれだけの知性を持っていたとしても、自分と他人の心をなおざりにする人間というのは多い。仕事相手を「アイツらバカだから仕事できないのよ」と笑い飛ばしたり、社会のひずみに声を上げる人に対して「賢い女とか、女の大事な部分を失っててキライなんだよね」と関係ない文脈で矮小化する人を見ると、とても悲しくなる。

わたしはきっと社会の中で多数派のふるまいや考え方に馴染める日はこないのだろう。それでも居場所があると思えるのは、それぞれ違う形の歪さを持った人間同士が、他人の歪さに寛容であろうと努力するゆるい共同体に居場所を見いだしているからだ。

自分がナチュラルに保有する後ろ暗い性質にあらがってまで他人と自分に優しくあろうとする、そういう「一周回って性格がいい」姿勢で生きている人たちの側でこれからも人生を営みたい。