解像度と焦点: 情報に優先順位とタグを付け、整理するために

 

膨大なヒト・モノとの関係性、情報量を扱う現代社会において、情報の取捨選択と整理術って一番大事なんじゃないだろうか。仕事でも日常でも、キュレーション術が方向性を定めるキモになってくると思っている。

知識もビジュアルイメージも、情報の体系的整理から…それが成立していないとわたしにはアウトプットが難しい。小学生の時に教えてほしかった。

まぁそんなグチを言ったところで誰も助けてはくれないので、自分でなんとかする術を考えてみる。

何にも押し留められずに書き続けることの作用

箸にも棒にもかからないブログをひたすら書き連ねるという1年を過ごして、「こんなことしてなんになるのだ」という逡巡を跳ね返しアウトプットしつづけるという体力だけはついてきたように思う。ずっと言いたいことや作りたいものがあっても脳みそに詰まったままになっていたのが、スッと出る。汚い言い方をすると、頭の便秘が改善された。これは筋トレで言う、体幹ができてきた、にあたる部分なのかしら。

感性の知覚過敏。自分の見ている世界と疲れやすさについて説明するとき、わたしはこういう表現をする。自分の処理能力を上回る情報を一気に吸収してしまい、現実を取捨選択してうまく取り扱うことができない。後から内省的になってやっと理解することすら多いので、うまく現実に折り合いをつけるには、文字を書き残したり視覚情報で視点を保存しておくのが必要になってくる。

今までは、自分の浴びている情報をカテゴリ分けしたり言語化して整頓しておく作業ができなくてアウトプットにつながっていなかったように思う。言語化というのはなんらかの言葉ならざるものを削ぎ落とす作業でもあるから、あまり意識していなくても情報の編集を行なっていることになる。この営為によって、自分の感じたもの見たものが保存され、あとから省みやすくなってきた。これが情報過多で疲れやすい自分をずいぶん助けてくれている。

ことばならざるものを保存するには、写真やその他のビジュアルメディアが向いているように思う。後からそれを振り返った時に、今までの自分には見えていないものがピクセル情報の中に見出せたりするからだ。だから、なんかモヤモヤするけれどもそれが実際どういう質のものかうまく言葉にならないとき、その感情に任せて見えている景色を写真に撮っておくことが多い。

日記でも哲学でも絵でも詩でも歌でも写真でも、自分にあったパッケージでいい。とにかく内省的な人間はそれを外部かしないと客観的になれない部分はある。対人コミュニケーションを通じてのフィードバックで気付けることも多いけれど、他人の反応に疎かったり表情や声色を読み取るのが苦手だったりする人もいるだろう。そういう場合は自分の制作物と対峙するほうが手っ取り早いとわたしは思う。

情報を外部化できるようになってきたら

「アウトプットをする=情報を外部化する」はできるようになってきたので、ここからは、

  • カテゴリ分けと紐付けによる体系的整理
  • 優先順位づけ
  • 成果物の充実: 一度決めたことを再考せずにとりあえず達成まで実施し続ける

この三つの獲得をめざしたい。

最終目標として自分の内面整理が必要なのだけど、まず目の前の現実だ。とにかく整理整頓が下手だ。もっと正確には、整理整頓に時間を使うのが下手だ。いつも空想にひたっている上に目の前の出来事全てについつい反応してしまって、それらをこぼさないようにと思うと、常に思考のジャグリングをしているような感覚に陥る。だからもう過ぎ去ってしまったことに時間を費やして並べ替えてみる、というような作業についつい苦痛を感じてしまって、なかなか手が出せない。

1.写真

具体的には写真データが一番やばい。どんどん撮るけど、それを見直して編集して整理して保存して、作品としてまとめて展示するところまで行き着かない。制作がしたくでもどのデータがあるかわからないし、日付ごとに並んでいるファイルを探し当てても具体的になんの写真か判別をつけるのに時間がかかる。写真用のハードディスクも3つあって、なんとなくカテゴリわけされている気がするけど徹底されていない。

膨大な量のイメージデータファイルを後からどこにあるか分かりやすくしたい。もっと直感的に効率的にお目当てのデータを探し当てたい。だから階層/ カテゴリタグ付の2軸管理の徹底を今日からやることにする。言語情報でカテゴリタグを増やすとしたらどのようなものがいいだろうか…。

色味 [例: 赤、明、太陽光] オブジェクト[例: 窓、猫、ランドスケープ] 、状況 [例: 夜、屋外、ドライブ、クリスマス] 、雰囲気 [例: ダーク、センシュアル、感情的、叙情、記録] 、場所 [例: 国名、イベント名]、その写真を扱えそうなテーマ [例: 構図、ストリートスナップ、ドキュメンタリ]  などかな….。

AIが発達する上で一番楽しみなのは、画像情報を文字で検索できるようになることだ。デフォルトのPCソフトに「画像を読み込んだら勝手に文字でのタグを生成してくれる機能」が追加されたらいいな。

2. SNSアカウント

現在わたしはこのごろびよブログ、写真用サイト/ブログ、関与しているソーシャルプロジェクト広報ブログ、身内用facebook、写真作品insta、日常写真insta、ヘナinsta、落書きinsta、ブログアイキャッチinsta、オフィスinstaをやっている。

わたしは注目を集めて発言力を高めるだとか、SNSでの活動を仕事につなげるだとか、ビュー数を集めてウェブ広告で稼ぐということには興味も適性もない。でもSNSアカウントというのは、そのメディア特性を生かして、自分のポートフォリオやアルバムとして使うのはとても利便性が高い。

分野ごとに分けてはいるから、一種のカテゴリ分けを達成していることにはなる。自分が情報を見返したい時にアクセスしやすいのが助かる。それぞれが情報を届けるターゲットは小さいけれど、もっと深く仲良くなりたいと思える人に出会ったときに「こういう世界を見ています」と説明するための資料として役に立っている。

対人コミュニケーションでの自己アピールや仕事内容の説明が下手なので、制作物でなんとかするしか人とうまく関係性を構築する術がない。インスタアカウントなんかは、ざっくりと画像を放り込んでおいて、後からアーカイブなんかもできるから、時間をたくさん費やさずともそれなりの量を生産できる。自分の見ている世界を切り分けて、出会う人が目にする自分の側面ごとに使い分ける、こういうSNSの使い方は自分の性に合っている。

しかしまだまだ懸念点が多い。まずアカウント量が多いという事実だけでしんどい。発信という意識での継続投稿も向いていない。でも検索機能・ポートフォリオとしては必要だからどれもやめられない。すでに関与している範囲が自分のキャパより広いすぎるんだろう…。書き散らし、載せ散らしまではやっとこさできるけれど、誰にどれくらい見てもらいたいかの設計と維持が本当にできなくて葛藤している。わたしは自己開示の段階が結構シビアで、見せようとしていない自己を気を許していない他人に見られると苦痛に感じる。(それを打開したくてこのブログをやっているという面がある。)

外部化しきれていないものに気付く

いろいろアウトプットできるようになってくると、それに照らし合わせて「何を出すことができないか」に気づいてくる。

トラウマやコンプレックスや不安を解体してより良く生きるためには、きちんと書いて考えておかないといけないことがある。けれど、書き出すのがいまだに恥ずかしくてやっぱり脳に詰まっていることも、たくさんある。私の場合はだいたい恋愛や性愛ごと、身体の悩み、社会の中での失態など。世の中への怒りではなく自分の内側へ向かう恥だ。何で未だにこんなに強烈に恥ずかしいんだろうなー。逆に、秘め事が好きなのかな…と思って内面を検討してみたけれどそういう趣味はなさそう。せいぜい「秘めていることが楽しいから言わないのではなく、言わなくても済んでいる」という感じ。

自分をよく見せたいんだろうけど、「私が自分の理想の振る舞いとしている姿って、自分がおもしろがる人間像なんだっけ」と思うと答えは「否」なので、メンタルブロックに負けずに視点の保存をしておきたい。

今のところブログをやってみてそれが癒しにも繋がるという実感があるから、成功すると自分の内面にもきっといい効果がある。