蜜月の終焉、渇望、存在しないヒーロー

 

ひと月半後に、盟友とでも言うべき人が遠くへ行ってしまう。やっと見つけた、この人とならいろんなことをうまくやっていけるかもしれない、そう思える友人。

それは突然決まった。彼女は疲れ切っていた。逃げ出す先を見つけてようやく息ができているような様子に、私はなすすべもない。友人、でしかないから、せめて気持ちよく送り出すことが最善であるとわかる。

しかし、さまざまなことを道半ばで終了させて、親密な人間との、一時は連綿と続くだろうと想像を巡らせた日常を捻り切るのには、予想以上に大きな悲しみが付随していて、それが私を蝕んでいる。

遠くへ行ってしまうといったって、死ぬわけでもなくただの移住だ。ただ、1年ほど仲良くした既婚者の友人が、思い立てば数時間で行ける範囲の場所に移住する。それだけのことだ。

しかし、その存在をどこまで自分に不可欠な部品の一つとして精神の血肉部分に深く食い込ませてしまっていたのか、あまりにも喪失の痛みが大きく、それが身体的症状ももたらすほどになっている。大事なものを大事に思いすぎるのは、その喪失への痛みを、他者に開いた精神部分の脆弱性を耐えられる以上のものにしてしまう、ただただ命を脅かすような毒にしかならない。

とても大事に思う友人との日々を喪失することに悲しくなり、そして自分が見たい景色がある場所へ協働できるかもしれないと抱いた期待が潰えた不機嫌を感じるという、どこまでもエゴイスティックな感情なので、どこにも持って行くところがない。相手にぶつけないだけ善処はしている。ただ自分の命を生きる上で負担がすぎるのが問題である。

そんな関係性に対して逸脱した感情は相手にとっても自分にとっても不必要で、それはとっくに分かりきったことで、でも私はまた同じ失敗をしようとしている。いつも私はそうだ、昔から。いつも私だけ、こんなに悲しく、いつまでたっても対処の方法を知らない。

人と人はどう頑張っても相手の皮膚の下に潜り込んで融合することはできなくて、それなのに相手との関係性をどこまでもきつく絡ませあいたいと希求してしまう。生計と生活を共有する誓いをすっ飛ばしておいて、自分と相手しかいないクローズアップシーンの中で、このまま破滅に向かえたら幸せだろうと思う。それは愛とは呼べない。そんな感情にうまくダムと水門を建設して流量を調整することができない。それは渇望と呼ぶべきもので、自分のことが、どこまでも愛情と愛着に飢えるように生まれついた醜悪な餓鬼のように思えてくる。一体なんの業なのか。親が特段養育において不手際をしたわけでなく、むしろ彼らは共働きでよくやっていた。リソース上限を超えて渇望する私が悪い。悪いというか、強欲のままで満足するような運と相性に巡りあわなかった。

フィクションの世界の妖魔であればよかった。フィクションには平穏な世界に不必要なおぞましい存在を滅却してくれるヒーローがいるから。もしくは、自分の身を削るような他者への渇望は映画の主題でよかった。鑑賞者が存在していて、彼らがエンターテイメントとして消費してくれるだろうから。

いつか理性と知性の踏ん張りが効かなくなって、押し付けがましい愛情まがいの醜い何かで他者を苦しめるのが怖い。そんな迷惑を人にかけるまえに消えてしまいたい。疎まれる前に去り、さらには惜しまれることがあるならば、涙がでるくらいに嬉しいことだろう。