生き直し時代


「私は分別のある大人ですから、そんなわがままは言えません。言えたら、とてもいいのですけどね。」

そんなセリフを現実で吐く機会が、先日あった。
その背景を語るのは要点ではないので説明しないが、最近生きているのは三文小説のような世界だ。

この言葉を口に出してから、分別、と心の中でひとりごちた。

いつも用心深く、他者に与えられたミッションを、満点はとらずとも堅実にクリアしてきたのにも関わらず、ここ数年で退廃・蕩尽という言葉が似合う生活様式と交友関係を結んでいることに、自ら疑問を感じていた。それに対して理解のとっかかりが見えたような気がしたのだ。

つまりは、自分は分別についてなんの心配もすべきでなかった過去の時節を、生き直そうとしているのではないか、それを経ないと次にいけないと直観したのではないか、そう思うようになった。

思えば私は田舎の、文化資本の蓄積が薄いその場所では突出した優等生で、正しさを手に入れようと必死だったし他者もそうあるべきだと思い込んでいた。それゆえ同じ年頃の子供たちからひどく蔑まれる対象にはならなかったが、疎ましくはあっただろう、理解できる対象として親密に接せられることもあまりなかった。

分別のある子供であった、分別のある子供であらねばならなかった、あるいは分別のある子供であらねばならないと思い込んで生きてしまったことが、私の認識を縁取る膜を硬直させてしまったのではないか。そのような考えが浮かんだ。その膜に手を当ててやわらげ、外にゆっくり延伸させる、その試みが今の心ゆくまでの堕落なのではないか。

隠遁のきっかけは生活がままならないほどの疲労を感じていたことだった。その時から比べたら随分晴れた気分の日が多い。たまにあるひどい揺り戻しは、内面を変えようとしていることへの副作用なのかもしれない。例えばマッサージの後の揉み返しのような。

変化には不安が伴って然るべきだろうし、堕落に没頭できるほどストイックな体力もないので、落ちるときは落ちるままにまかせて、その疑心暗鬼と自罰的思考をも受けとめ咀嚼し味わい深いと感じられるような構造を自分の中に作りつけるほうが早いような気がしてきた。

そんなことを書いているが、じゃあ実際どうするのかは知らない。私の世界は三文小説ほどの力しかもっていない。