どうか動じない硬度を


SEO対策のアップデートをしてよ!もっとたくさんの人に見て欲しいよね!とウェブサイトのシステムが叫んでいる。やめてくれ、ほおっておいてほしい。大勢の人が行き交う場所で、誰にも気に留められないまま静かに泣きたい性分の人だっている。

人のことを大事に思えば思うほど、相手への期待はふくらんで、でもそれが良くないことはわかっているから抑え込もうとする機構が働いて、それでまた狭い容器のなかで心がぐちゃぐちゃになってしまう。人を大事に思えば思うほど、穏やかでいられない。

愛してよ、欲してよ、惜しんでよ。どうか、あなたの側も。


親密な人が、好きだと言って紹介してくれた曲が、ふいにspotifyから流れた。
この人を失うと、聴けなくなる曲、いけなくなる店、歩けなくなる道がまた増えるだろう、と考えてしまう。失う未来のことを考えて絶望的な気持ちになりながら、でも今日の痛烈な眩しさ、その刺すような痛みも、愛したいと思う。

そう考える私の顔貌は微動だにしない。内面の揺れ動きがいかに激しかろうと、それが体表に現出しない。人に弱みをみせたらつけこまれる、笑われる、裏でもっと貶められる。それを避けたくて、身体をゆるがせない、反応をやめてしまうという戦略をとっているらしく、いつからか冷静に見えるの傀儡ができあがった。

どれだけ驚いたり慄いたりしていても「動じないんですね」と言われる側から論理的に聞こえる言語を抑揚の少ない低めのトーンで並べ立てる。こうして私は「大丈夫」な人に成る、どこにいても。

そうして人々が安堵した後に急に姿を消すから、よくわからない、気まぐれだ、そう思われているんだろうか。

わたしが気に留めてやまないようには、だれも気に留めていなければいい。
真に動じない、気に留めない硬度は、意思の力でもたらされるものなのだろうか。感受性の鈍化を待つしかないのだろうか。同じことばかり繰り返し相手の反応に観察が行き届かない人を見ると、羨ましく思うようになってしまった。どうやったらこの仕組みができあがるんだろう、欲しい。

自分の感受性は自分で守れ、と茨木のり子は言った。しかしそれは受け止められる知力と気力、その源泉となる希望や信頼があってこそだと思う。まろやかで、焦点がぼやけた世界、その生あたたかさのほうが羨ましい。もう、何者にも勝手に流れ込んできてほしくない。何にも対処する必要がない場所で静かに休みたい。